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元福祉施設職員が映画『月』を観てきた

映画『月』を観てきた

障害者の家族としても、元福祉施設職員としても、相模原障害者施設殺傷事件のことを考えない日はない。

自分が夜勤の日に“さとくん“が来たらどうしようかという恐怖

自分が“さとくん“になってしまったらどうしようかという恐怖

施設にいて命を奪われた彼らと、家で平和に過ごしている母はなにが違うのか

“障害者“と私はなにが違うのか

私と“さとくん“はなにが違うのか

ヒントを求めて原作の小説を買っていたが、怖くてなかなか読み進められていなかった。

それでもやっぱり、目を背けたくなるような現実と向かい合ってみたい。

映画なら、一度座ってしまえば、144分間、逃げずに観られると思った
(でも小説版と映画版では設定が違うらしいから、また印象は変わるかも)

以下、ネタバレを含む走り書き。


社会が見たくないものを森の奥に隠した結果の事件

さとくんがやったことは許されないこと。

でも、はたして社会のどれだけの人が、10年も寝たきりのきーちゃんの部屋に月を飾ってくれる?同僚に煙たがられても利用者に紙芝居を見せて楽しませようとしてくれる?

利用者に噛まれても痣ができても我慢できる?

排泄物を体や部屋に塗り広げられても嫌な顔せずに掃除できる?

暴言を吐かれても言い返さずにいられる?

それを、毎日、毎日。

東京都八王子市の精神科病院で患者の虐待が発覚した『滝山病院事件』の特集番組の中で、「滝山病院は必要悪。地域で暮らすことができない精神病患者を診てくれる最後の砦なので、なくなったら困る」といった意見があった。

いじめを止めずに見ている傍観者もいじめの首謀者と同罪なら、私たちもさとくんと同罪なのではないか。

自分たちの平和な社会を守るために、いてほしくない人たちは排除して森の奥に隠して見ないようにしているということを、社会のどれだけの人が認識しているのか。

見たくないものを見続けるのが、利用者、利用者の家族、施設職員ぐらいしかいないことが、この凄惨な事件の引き金になってしまったのではないかと感じる。

施設内のごく一部の人たちだけではなくて、もっとたくさんの人たちで、地域の中で暮らすことが難しい人のこととか、虐待のこととかを考えてみたい。

序盤では、さとくんはむしろ好青年だ。同僚の方が、利用者を強引に部屋に閉じ込めたり、てんかん発作を誘発したりしていて悪者に見える。

そんなさとくんが変わっていってしまう姿を描くことで、誰もがさとくんになってしまう可能性があるのだと示している。主人公(?)の堂島洋子がさとくんと、そして自分自身と向き合うシーンからも、私たちがさとくんを完全に断罪できるだけの材料を持ち得ていないのだということがわかる。

…ということなのかな?と思って観ていたが、さとくんに感情移入しきれないひとつの謎が残った。

さとくんは、なぜ言葉を話せない人を「心がない」「人間ではない」とみなして排除しようとしたのか?

さとくんが障害者福祉施設の現実に怒りを覚え、苦しんだということはよく伝わってきた。

でも、なぜその怒りが「言葉を話せない人」に向かったのか?

正直なところ、「言葉を話せる利用者」に理不尽に暴言を吐かれると、負の感情が沸く。障害者の家族としても、母は言い訳が多く、わがままなので話しているとイライラすることも多い。

あとは暴力を振るってくる利用者にも負の感情がわく。なんで殴られても我慢しなければならないのか、殴り返したいとさえ思う。怪我をさせられるかもしれないという恐怖も感じる。もちろん、彼らは言葉で上手く伝えられない思いを行動にして伝えようとしてきているのだとは思っている。だけど、殴られたら痛いのも、怪我をするのも、障害者と健常者に違いはないのだ。

そういった「自分を攻撃してくる人」に「攻撃し返したい」と思う気持ちは理解できる。しかし、きーちゃんのような、話さない、動かない人は、自分にとってなんの害もない。それなのに、なぜ、さとくんは「人間ではないからいらない」と思ったのだろう。

また、さとくんがずっと部屋に閉じ込められている利用者を見たときに、自分自身と錯覚するシーンで「俺はこいつとは違う」と言っていたが、何をもって違うと判断したのだろうか。違うと信じたかっただけだろうか。

堂島洋子も、事件を起こす前のさとくんと対峙するシーンで「私はあなたとは違う!」と言っていたが、そう言い切れる根拠はなんだったのだろうか。それも、そう信じたかっただけだろうか。

さとくんが事件を起こしたとき、最初は元同僚の陽子に聞かずに自分で「あなた、心ありますか?」と利用者に聞いていたが、何をもって話せないと判断していたのか。ろう者の彼女とは手話やスマホ画面等でやりとりしていたから、発話以外にもコミュニケーションの方法があるということは理解できていそうなのに。

あえていうなら、答えを出さないことが正解なのかも

どうしてもさとくんの思考に追いつけずにもやもやしてしまったので、後から相模原障害者施設殺傷事件について調べた。

どうやら植松聖は施設職員になる前、子どもの頃から激しい優生思想をもっていたようだ。

なーんだ、そういうことなら、そりゃあ理解できないな。
施設職員としての経験の中で考えが変化していったわけではないなら追いつけないな、と思い、「誰もがさとくんになる可能性はあるけど、やっぱりさとくんは異常だったんだ」ということで片付けようと思った。

しかし、監督のインタビューなどをいくつか読んでいるうちに、逆にこれは「理解してはいけない」「答えを出してはいけない」ことなのかも、と思うようになった。簡単に理解したつもりになって、これが答えだと決めつけて他を排除することこそが差別的な思想のはじまりなのだ。答えを出してそこで考えを止めるのではなくて、この先も一生、どうすればこんな事件は起きなかったのか、どうすればみんながより良く生きていけるのかを考え続けてこそ、映画として問題提起された意味があるのだと思った。

でもこの先も社会は平等にはならない

この映画では、話せない障害者と話せる健常者の違いは痛いほど明確だし、さとくんに言わせれば話せる障害者と話せない障害者の差も大きい。

堂島洋子は出生前診断で悩んでいたが、医師に「障害と病気は違う」と言われていた。病気だったら健常者だけど障害だったら障害者なのか。周りの子は元気に成長しているのに、翔平くんは早くに亡くなってしまった。

そして、健常者同士でもやっぱり差はある。
主要登場人物はみんな芸術を志していて、「才能がある、ない」「売れる、売れない」の差で悩んでいる。

私が一重まぶたやら歯並びやらで悩んでいる一方で、顔が正常に成形されずに生まれてくる子どもだっている。

大きなことから小さなことまで差があるのが世の中で、その差が小さくなることはない。簡単に差別はなくならないし、理不尽な思いをすることもなくならないと思う。

個人的には、自分が健常者であることであたかも障害者より優位性があるようになってしまうことが嫌だ。確かに相手にできないことが自分にできたら、それは自分の方が優位なのかもしれないけど、私だって障害者に嫌なことを言われたら嫌だと言いたいのに、弱い者いじめかのようになってしまうし、相手は障害者なんだからこっちが我慢しなさいと言われるのも、それはそうなんだけどどうも釈然としない。好きで障害者になったわけではないとはよく聞くが、好きで健常者になったのかというとそういう訳でもない。だからといって選んで障害者になるかと言われたらそれもまた違う。本当は平等になりたい。楽しいことがあったら思いっきり一緒に笑って、嫌なことを言われたら思いっきり言い返したい。でもそうなる日はきっと来ない。

この映画では”かつてあったことは、これからもあり かつて起こったことは、これからも起こる。”という旧約聖書の言葉が出てくる。

これからも人間は愚かで、同じ過ちを繰り返すかもしれない。

だからといって、それでいいわけじゃない。
見たくないものを見ることは、誰だって嫌だ。
さとくんは、正義感に突き動かされて、ひとりでどんどん森の奥へ奥へと、進んで行ってしまったのかもしれない。
本当は、さとくんひとりだけではなくて、みんなで向き合わなくてはならなかったのに。

太陽が当たって光って見えている側も、地球からは見えない裏側も、
どちらもひとつの月。


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