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空想の湖に漕ぎ出していきたい

最近、ものすごく本が読みたくて、読みたくて。特に小説が無性に読みたくてたまらなくなった。
心がどこか遠くに行けるようなものがいい。フィクションの世界に浸りたい。ハリーポッター並みのファンタジーでもいいけれど、個人的には、『スコシフシギ』くらいのSF感が好きだ。壮大なスペクタクルほど騒々しくない温度感のもので、気持ちが暗くなりすぎないもの…。

そんなわがままな注文をつけながら、自分の心が求める小説を探し求めた末にたどり着いたのは、過去に読んだ本だった。

人生の中で数冊、大好きな本というのはあるもので。その一冊が、小川洋子著『密やかな結晶』だ。久しぶりに、読み返してみた。そして貪るように、一気に読んでしまった。

最近、この大好きな小説が、イギリスの権威ある文学賞「マン・ブッカー」賞の最終候補6作品に選ばれたというニュースを聞いたばかりだった。

『消滅』と『記憶狩り』のある島へ

その島では、ひとつずつ何かが、確実に『消滅』していく。

ある朝起きたら、ふと違和感を感じる。ああ、また何かが『消滅』した。そんな胸騒ぎで起きて、何が消滅したかを知るのはそのあとのこと。そして気がついた人たちから、それを川に流したり、燃やしたりして物理的に消滅させる。消滅が訪れれば、それを懐かしがったり、寂しがったりしながらも、2、3日もすればみな、元どおりの毎日を取り戻す。そして自分が一体何をなくしたのかも思い出せなくなる…。

その島の人々に訪れる『消滅』は、とにかく多様である。たとえば、薔薇の花。形はあるのに、人々はそれが一体何だったのか、どんな存在だったのか、一夜にしてそれを忘れてしまう。人々はそれを目の前から消し去らなければという強い衝動に突き動かされ、その日、川は薔薇の花びらに埋め尽くされる。
ただし『消滅』したものの記憶を失わない人たちが少なからずこの島にはいる。『消滅』したものを持ち続ける人たちは、『記憶狩り』によって強引に拉致されてしまう。主人公の母は、記憶を失わない一人だった。そしてある日記憶狩りに連れ去られ、ほどなくして原因不明の病死として、遺体として帰還したのだった。人々は少しずつ何かを失って行きながら、記憶狩りを恐れながら暮らし、小説家である主人公もやがて、小説を、言葉を、失っていく…。

もう、あらすじだけでノックアウトである。

『消滅』を経験しない人たちは狩られることを恐れ、ある人は協力者のもとに匿われ、身を潜めて暮らす。そう、『記憶狩り』の存在は、ナチスドイツ下の秘密警察を彷彿させる恐ろしさなのだ。

小川洋子の船に乗る

小川洋子の本を読んでいると、とても安全で決して転覆しない、小さな船に乗っているような気持ちになる。丈夫でも立派でもない小さな船で、広大な海ではなく、洞窟の中みたいな、うす暗くて深いところまで連れて行ってくれる。この本も例にもれず、そんな船に乗せてくれていってくれる。

その場所はとても奥まっていて、近づかなければ決して見えない。そんな、人間の奥底にある、繊細で、誰にも見せないような部分まで、その船に乗ってさえいれば、覗きこむことができる。誰もあとを追えないほどにくねくねとした航路をたどって、その島に生きる人たち、それぞれの立場にいる人たちの気持ちを、小川洋子がライトで照らして引導してくれる。得体が知れなくても輪郭ははっきりと見えてくる。その人たちの気持ちがわかるか、わからないかはこちら次第かもしれない。だけど小川洋子の船は、確実にその深淵まで連れて行ってくれる。

暗い洞窟の中でほのかに美しく光る、密やかな結晶。決して持ち帰ってはいけない。だから私は、宝物のように奥底に隠されたそれを、きちんと目に焼き付けて帰らねば、と思うのだ。

忘れたいことを忘れられない人と、
すっかりと忘れてしまう人、
この世界では、どちらが幸せなのだろう。
この本を読むと、この疑問がいつも色濃く残る。

石原さとみ主演で舞台化もしていたという。ちょっと見てみたかったような、このまま文字の世界の中で、泳いでいたいような。

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