見出し画像

映画『ある戦慄』自分の中にいる悪魔を解放する

あらすじ

ニューヨーク・ブロンクス。夜の街を闊歩するジョーとアーティのチンピラ二人組は通行人を暴行して小銭を巻きあげると、マンハッタン行きの地下鉄に乗車する。そこには幼い少女を連れたウィルクス夫妻、アリスとトニーの若いカップル、年老いたベッカーマン夫妻、教師のパーヴィスと美人の妻バーサ、白人を憎んでいる黒人アーノルドとその妻、同性愛者のケネス、休暇中の陸軍一等兵などが乗っていた。ジョーとアーティは乗客をからかい始める。ドアが故障して他の車両へ移動できないため誰も逃げられない。すると乗客はチンピラに挑発され、日ごろの鬱憤を爆発させ、感情をむき出しにし、互いにののしり合い始める。調子に乗った2人は少女に手を出そうとする。そのとき、ついに立ち上がって彼らに対決を挑んだのは意外な人物だった……。

監督:ラリー・ピアース 
キャスト:マーティン・シーン


タイトルに惹かれた胸糞映画。

でも僕はこの映画が愉快で愉快で仕方がなかった。

自分の中にいる悪魔的な人格。

僕はそれを小さい頃から自覚し、恥ずべきものとして否定していた。

世間体を気にして誰にも見つからないように隠して来た。

その悪魔的人格を矯正するために宗教やスピリチュアルな世界に傾倒した事もある。

でも悪魔は想像以上に手強く、無理やり矯正しようとすれば、さらに肥大化して手に負えなくなる気がしたので諦めた。

本当はこのチンピラ二人組みたいに悪魔を解放して、毎日人をおちょくりたいと思っている。

ターゲットは自分の人間的愚かさや醜さから目を背け、自覚しようとしない人たち。

思いやりだとか、愛だとか、善人ヅラ、正義ヅラして他人を啓蒙している人たちの裏の顔や腹の底を暴いて、全部バラしてやりたい。

自分の悪魔的な人格を完全に否定して道徳的に振る舞い続け、他人のご機嫌を窺っている人たちが心底嫌いだ。

嘘が透けている人間と付き合うと、僕も相手の嘘に付き合わないといけなくなるから一緒にいるのがすごくダルい。

悪魔は潜在意識の中にいるか、潜在意識そのものだから、誰も普段はその存在に気付かない。

恐いから気付かないように無視している。

社会に属して社会システムに依存して生きている以上、それは仕方がないのかもしれない。

僕も普段は他者と共存するためになるべく善き人間として振る舞い、何食わぬ顔をしている。

そんな自分自身も心底嫌になる。

殺人とか強盗とか直接悪事を働きたいわけではないけど、この映画のチンピラ二人組みたいに、他の人間の中にいる悪魔を焚き付けて、

「お前にも身におぼえがあるだろ?」

と、自覚させてやりたい。

僕より弱い立場の人間やメンタルの弱い人間だけは免除しよう。

わざわざおちょくらなくても、彼らはいつも自分の嘘や他人の嘘に怯え、罪の意識を感じて苦しんでいるからだ。

そういう人間は許してやる。

SNSで調子に乗っている意識高い系インフルエンサーや胡散臭いインフルエンサー気取り。

そのへんをターゲットにするのが面白いだろう。

彼らになりすましたアカウントを作って、二人組のチンピラのように振る舞ってみたい。

神が自分に似せて人間を創造したのなら、人間には相反する天使と悪魔の人格が両方必ず存在する。

天使と悪魔も神の創造物なのだから、それは全て神の一部。

神の雛型である人間はその両方を自覚していなければおかしい。

東洋思想でもそれを陰陽の法則として理解している。

天使と悪魔の両方を自覚して、なんとか折り合いをつけて生きていくしかないのが、人間の本質だと、僕はこの映画を観て思った。