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私たちの生きている社会は正しいのか?マイケル・サンデル氏著書『能力主義は正義か』を読んで

大学時代に社会学・文化人類学を履修し、とりわけアメリカにおける社会文化や歴史・政治を専修していたためサンデル氏の新著には興味を持ち読んでみた。

感想は一言では表せられないが、あえて言うならば、読了後には私の現代社会に向ける考え方や今後の目指す生き方について大きな影響を与えた一冊であった。

内容はかなり専門的な部分まで踏み込んであり、用いられる用語も難しく読み進めるのに時間がかかったが、是非一人でも多くの人に読んでほしい一冊である。

『能力主義』的な社会とはどのような社会か。そのような社会で人はどのような考えを持つようになるのか。

能力主義的な社会とは、簡単にいえば、その社会における所得と資産の所有や不平等は、人々が才能と努力によって獲得したものの帰結である社会である。そのような社会では、例え裕福な環境に生まれない場合でも人々は才能と創意を発揮することで自分の置かれた境遇を改善できると考える。

その結果、努力と才能によって能力主義社会の頂点に登りつめたとすれば、自分の成功は自ら勝ち取ったものだという事実を誇りにできる。一方で能力主義社会において貧しいことは自身喪失につながる。自分の恵まれない状況は、自ら招いたものであり、出世できない場合は厳しい判決を宣告されるということに等しい。

上記のような道徳観や感情は、取り残された人々が成功者に向ける不満や怒りを生じさせることにつながる。

能力主義の倫理は、勝者のあいだにはおごりを、敗者のあいだには屈辱と怒りを生み出す。こうした道徳的感情は、エリートに対するポピュリストの反乱の核心をなすものだ。ポピュリストの不満は、移民や外部委託への抗議以上に、能力の専制に関わっている。こうした不満にはもっともな理由があるのだ。

さらに、所得や資産の全てが自らの才能・努力の結果だと思い込むことは、自分の置かれた環境や、偶然がもたらす幸福な結果への思慮もなくなってしまう。

運命の偶然性を実感することは、一定の謙虚さをもたらす。「神の恩寵がなければ、つまり幸運な偶然がなければ、私もああなっていただろう」と感じられるのだ。ところが、完全な能力主義は恵みとか恩寵といった感覚をすべて追い払ってしまう。共通の運命を分かち合っていることを理解する能力を損ねてしまうのだ。自分の才能や幸運の偶然性に思いを巡らすことで生じうる連帯の余地は、ほとんど残らない。こうして、能力は一種の専制、すなわち不当な支配になってしまうのである。

『能力主義』的社会は平等なのか。

勝者には莫大な富をもたらし、敗者には厳しい生活を強いる点で不平等な社会である。

『能力』があれば成功できるという共通認識はあるが、『能力』を発揮するための環境や機会は不平等である。

不平等の解決策としてひたすらに教育に焦点を当てることや、大学進学を推進することは、教育を受けられず学位を得られない人に対してはさらなる排斥をもたらし、不平等を拡大する可能性もあるという批判は避けられない。

不平等の解決策としてひたすら教育に焦点を当てる出世のレトリックには、非難されても仕方がない面がある。尊厳ある仕事や社会的な敬意を得る条件は大学の学位だという考え方に基づいて政治を構築すれば、民主主義的な生活を腐敗させてしまう。大学の学位を持たない人びとの貢献をおとしめ、学歴の低い社会人への偏見をあおり、働く人びとの大半を代議政治から実質的に排除し、政治的反動を誘発することになるのである。

個人的には以下の一文が能力主義が「その才能を発揮すれば誰でものし上がれる」という点で平等であると感じられる、または支持される理由として腑に落ちた。

能力主義社会にとって重要なのは、成功のはしごを上る平等な機会を誰もが手にしていることだ。はしごの踏み板の間隔がどれくらいであるべきかについては、何も言わない。能力主義の理想は不平等の解決ではない。不平等の正当化なのだ。

極度な能力主義がもたらした社会状況

極度な能力主義により貧富の差は拡大し、また富むものはその富や特権をさらに牛耳るようになった。その結果、社会の分断は進み、政治的・社会的な亀裂も大きくなっている。イギリスのブレクジットやトランプ当選も、不平等が広がった社会で取り残された人々からの怒りの評決である。

イギリスにおけるブレグジット(EU離脱)の勝利と同様に、二〇一六年のドナルド・トランプの当選は、数十年にわたって高まりつづける不平等と、頂点に立つ人びとには利益をもたらす一方で一般市民には無力感を味わわせるだけのグローバリゼーションに対する怒りの評決だったのだ。それはまた、経済や文化に置き去りにされていると感じる人びとの憤りに鈍感な技術官僚的政治手法への叱責でもあった。
真の政治的分断は、もはや「左」対「右」ではなく「開放的」対「閉鎖的」なのだと彼らは主張した。こうした言い分は次のように示唆するものだった。外部委託、自由貿易協定、制限なき資本移動に批判的な者は、進取の気性に富むというよりは了見が狭いのであり、グローバルというよりは部族主義的なのであると
能力の専制に虐げられていると感じる人びとにとって、問題は低迷する賃金だけではなく、社会的敬意の喪失でもあるのだ。

サンデルは能力主義社会の弊害を以下のようにまとめている。

第一に、不平等が蔓延し、社会的流動性が停滞する状況の下で、われわれは自分の運命に責任を負っており、自分の手にするものに値する存在だというメッセージを繰り返すことは、連帯をむしばみ、グローバリゼーションに取り残された人びとの自信を失わせる。第二に、大卒の学位は立派な仕事やまともな暮らしへの主要ルートだと強調することは、学歴偏重の偏見を生み出す。それは労働の尊厳を傷つけ、大学へ行かなかった人びとをおとしめる。第三に、社会的・政治的問題を最もうまく解決するのは、高度な教育を受けた価値中立的な専門家だと主張することは、テクノクラート的なうぬぼれである。それは民主主義を腐敗させ、一般市民の力を奪うことになる。

『能力主義』的社会をどのように生きるか。

能力主義社会は理想的な社会ではないと認識しつつも、学歴が大きな役割を果たす、ということを理解している以上は学歴や所属する会社での功績を蔑ろにはできないだろう。
しかし、どのような収入を得ており、どのような仕事をしているのかに関わらず、生活者・労働者全員に対する尊厳の心を持つ必要がある。そのような道徳観を持つためには、似たようなバックグラウンドや年代層とだけ付きあうのではなく、より幅広い世代や異業種の人々と時間を共有し、近くに生活する人同士では「共同体意識」を持つことが大切である。

自分自身を自立的・自足的な存在だと考えれば考えるほど、われわれは自分より恵まれない人びとの運命を気にかけなくなりがちだ。私の成功が私の手柄だとすれば、彼らの失敗は彼らの落ち度に違いない。こうした論理によって、能力主義は共感性をむしばむ。運命に対する個人の責任という概念が強くなりすぎると、他人の立場で考えることが難しくなってしまう。

また、自分が成功している場合はその立場や状況を全て自らの功績だと思い上がるのではなく、そこに到達するまでの道のりは幸運な偶然が繋がったものであり、決して自分の能力だけでは到達できなかったと謙虚さを持つことも大事である。

皆がより住みやすく、尊厳を保てる社会とはどのような社会か。その社会の実現にはどんなことが必要か。

必要なのは経済成長と、その成長した果実をより公平に多くの人に分配することだけではない。人々が欲しているのは『尊厳』であり、『社会に貢献している感覚』なのである。

その尊厳を守り、社会貢献への感覚をより幅広い人々が感じるようにするためには、実生活に直結して必要だと感じられる労働やものづくり・サービスにより大きな評価(おそらくこの評価が給料という面で反映されることになるかもしれない)を与えることが重要である。

現代のリベラル派は、労働者階級と中流階級の有権者に、分配的正義を増すことを提案してきた。つまり、経済成長の果実をもっと公平に、もっと十分に手に入れられるようにすることを提案したのだ。しかし、有権者がそれより欲しがっているのは、より大きな貢献的正義──他人が必要とし重んじるものをつくり出すことに伴う社会的な承認と評価を得る機会なのである。

また、「多くを稼いでいる=能力があり、尊厳も高い」というような感覚を社会から取り除くためにも、金融機関(特に一部の投資銀行)および投機による資産の拡大に関してはより「大きな政府」として課税や制限を設けていく必要があると感じる。新たな事業が生まれ、人々の生活がより便利・豊かになるという機能面では金融の存在意義はあるが、富を持つものにさらなる富を授け、結果として金融機関も儲かり、その所得が尊厳として評価されるような社会では不平等が拡大する一方だと思った。

道徳的・政治的観点からすると、市場が金融に与える報酬と、金融の共通善への貢献の価値のあいだには大きな開きがあることを示している。この開きが、投機的活動に携わる人に付与される過大な威光と相まって、実体経済で有用な財やサービスを生産して生計を立てる人の尊厳をあざけっているのだ。

本著でも引用されている、『平等論』の著者で社会評論家のR・H・トーニーの言葉を持って、個人の幸せ、しいては社会の幸福にとって必要なものが何かを再度記しておく。

社会の幸福……は、団結と連帯を土台とする。出世する機会だけでなく、高いレベルの文化、共通の利害の強い意識が存在することが不可欠だ……個人が幸せになるためには、快適かつ栄誉ある新たな地位に自由に出世できる必要があるだけではない。出世しようがしまいが、尊厳と文化のある生活を送ることができなければならない

能力主義は正義か


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