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西部戦線異状なし 1930年アメリカ

西部戦線異状なし

ロシアとウクライナの戦争は、勃発からすでに4ヶ月が経ちますが、いまだに多くの悲劇を量産しながら終わる気配を見せません。
プーチン大統領は、戦争を始めた当初、この戦争は数日で決着がつくとたかを括っていたと言います。
それほどに、圧倒的な軍事力の差があったことは事実でしょう。
しかし、直接の軍事行動には参加しないと表明した各国は、ウクライナに対して、武器供与や情報提供などの軍事支援は積極的に行い、協力体制を進め、ウクライナは、国際世論も味方につけながら、軍事大国ロシアを相手に今でも戦いを続行しています。
この戦争がこれだけ長引くことを、プーチン大統領は全く想定していませんでした。
戦争とは、いつでも想定外に転がってゆくもの。
一度始まってしまえば、結局どちらの思惑通りにも進まないことが多いと言うことです。

今から、100年以上も前に、世界中の列強を巻き込んだ、人類史上初めての世界大戦も、それは同じでした。
1914年6月28日に発生したサラエボ事件を引き金に、この第一次世界大戦は始まりました。
ナポレオン戦争以来、およそ100年近く戦争らしい戦争を経験していなかったヨーロッパには、どこか平和ムードが漂っていました。
戦争に駆り出されたヨーロッパの若者の誰しもが、この戦争はクリスマスまでには決着がつくと信じていました。
しかし、この戦争の決着はなかなかつかず、いつしか参加国全てにとって総力戦となり、兵士だけではなく、銃後を守る国民と国家財政をもとことん疲弊させながら4年間も続くことになるわけです。
この戦争を長引かせた最も大きな原因となったのは、この戦争での主力となった武器にありました。
それは、機関銃とライフル銃です。
戦争も後半になってくると、この大戦では戦車や飛行機も登場し、悪名高い毒ガス兵器も使用されます。
しかし、後の第二次世界大戦では、活躍するこれらの最新兵器は、まだ第一次大戦では十分に武器としてこなれてはいません。
戦車は戦場で故障し立ち往生してしまうこともしばしば、飛行機も複葉機に機関銃を持ち込んで撃っていたり、人が直接爆弾を投下していたりで、まだまだ武器として未成熟。
実際の戦場では偵察機としての役割の方が重要でした。
毒ガス兵器も、すぐに対応策として、ガスマスクが開発され、雌雄を決するような決定的な武器にはなっていません。
戦場での主力武器が、機関銃や命中制度が上がったライフルということになると、突撃してくる相手を待ち構えて一斉に撃ちまくる守備戦の方が圧倒的に有利となります。
そうなると、守備体勢を固めながら、相手の攻撃を待つという戦法になるため、前線には、両陣営の長い塹壕が掘り進めらることになります。
痺れを切らして、突撃を敢行すれば、たちまち機関銃の餌食になります。
こうなると、最前線では、塹壕に身を潜めながら、ひたすら相手の攻撃を待つという布陣になるため、戦線は一気に膠着状態となります。

第一次世界大戦の西部戦線においては、歩兵たちの仕事の8割は、塹壕をひたすら延長していく労働に割かれることになります。
こうなると最悪なのは、自陣の背後に塹壕が回り込まれること。
これを回避するために、この塹壕延長合戦は果てしなく続き、最終的に、この大戦を通じて伸びた両陣営の塹壕は、イギリス海峡から、永世中立国スイスの国境まで、およそ750kmにわたっていたと言いますから凄まじい話です。
戦争は長期戦の様相を呈し、両軍の兵士たちは、不衛生極まりない塹壕の中で神経をすり減らしながら、身を潜め、死の恐怖とも向き合い、開戦当時の意気込みは何処へやら、次第に戦争そのものに対して懐疑的になっていくわけです。

本作の原作小説を書いたレマルクは、実際にこの大戦にドイツ兵として従軍し、塹壕戦を体験しています。
彼が前線に送られたのは、戦争末期の1917年。
この頃には、ドイツのヤケクソとも言える潜水艦無差別攻撃で怒らせてしまったアメリカの参戦により、ドイツは降伏に向かってのカウントダウンが始まった時期。
レマルク自身は、戦闘中の負傷で軍病院のベッドの上で戦争終結を迎えていたようですが、戦争末期の前線兵士たちの悲痛な叫びは、彼の脳裏には焼き付いていたはずです。
この小説は、終戦から10年が経った1929年に発表されて大ベストセラーになり、彼は一躍人気作家になったわけですが、彼はそれ以降も一貫して、両大戦を背景にした作品を残しています。
とまあ、偉そうに言ってますが、僕が知っているのは、彼の作品を原作にした「凱旋門」を、イングリット・バーグマンの美しさに惹かれて、名画座に見に行ったくらいのもの。
ちょっとWiki してみると、この人は、絶世の美女グレタ・ガルボやマレーネ・デートリッヒなどと浮名を流したなんて書いてありましたから、かなりの色男だったようです。
ちなみに、奥様だったのは、チャップリンの「モダン・タイムス」「独裁者」に出演していたポーレット・ゴダード。

さて彼のこの原作が映画化されたのは、小説発表の翌年の1930年です。
本作は、アカデミー賞の作品賞と監督賞も獲得した古典的名作。
主人公のパウルは、もちろん原作通りにドイツ人として描かれていますが、アメリカ映画であるため、当然ながら出演者が話しているのは英語。
さすがにここは、少々違和感がありました。
まあしかし、これは映画という娯楽の暗黙のお約束として、観客は飲み込まなければいけないところでしょう。
しかし、それ以外の細部は、戦争からまだ10年しか経っていないこともあり、概ね当時の状況が正確に描かれていました。
第一次世界大戦を舞台にした名作は、その後もたくさん作られています。
本作も1973年にリメイクされていますし、個人的に衝撃的だったダルトン・トランボ監督の「ジョニーは戦場へ行った」も、第一世界大戦が舞台。
最近では、前編をほぼワンカットで撮り切ったサム・メンデス監督の「1917」も傑作です。
しかし、それらの作品よりも、本作の方がリアルだと感じてしまった理由は明白です。
それは、NHKの記録ドキュメント番組「映像の世紀」を見ていたからですね。
第一次世界大戦は、実は人類史上初めてカメラが捉えた戦争だったわけです。
もちろん、当時の映像ですからモノクロですが、そこに刻まれていた生々しい戦場の記録はかなり衝撃的でした。
この記憶が鮮明でしたので、この時代の映像としては、後年のカラー作品よりも、まだカメラの性能がそれほど変わっていない時代に作られた本作の映像のタッチの方が、よりリアルに感じられたのでしょう。

映画には、主人公が敵兵の死体と涙ながらに語り合うシーンや、少年たちを戦争参加へと煽る、かつての教師の授業に顔を出した彼が、生徒たちに向かって、戦争に対する懐疑を吐露するシーンなどは、反戦ムードがピリピリと漂いますが、本作が製作されたのはなんと言っても1930年です。
ドイツでは、ヒットラーが頭角を表し、やがて全ドイツの総統になろうとしている時期。
原作者のレマルクの反戦小説は、当然ヒトラーにはマークされ、彼はナチスから迫害を受けることになり、やむなくアメリカに亡命しています。
彼の妹は、ナチスに捕えられ処刑されています。
第二次世界大戦で世界が再び戦火を交えるのは、この映画公開された10年後のこと。
この後、ハリウッドで山のように量産されていく勇ましいエンターテイメント戦争映画と、本作は明らかに一線を画しています。
地獄のような戦場で主人公が心を通わせるようになった、父親ほども歳の離れた戦友を背中に背負いながら亡くし、最後は、塹壕の外を飛んでいた蝶を捕まえようとして、敵狙撃兵に撃ち殺されたしまう主人公パウル。
映画はそこで、エンドマークとなりますが、原作小説の方にはこの続きがあります。
パウルがライフルで撃ち抜かれた日の、本部への戦況報告はこう伝えられます。

「西部戦線異状なし。報告することは特になし。」

戦争が日常化すれば、人が死ぬことさえも、特別ではない日常になってしまう恐ろしさこそ、この作品が伝えている強烈なメッセージです。
人間は悲しいかな、どんな状況でも、長く続けば次第にそれを、新たな日常として受け止めてしまう生き物だと言うこと。
それは、今回のCovid-19 パンデミックが見事に証明しています。
今や我が国には、公共の場所でマスクをしない人などほとんどいません。
つい3年前の日常から比べれば、嘘のような現実を、我々はいつの間にか受け入れているわけです。

同じように、気がつけば我が国は、いつの間にか、集団的自衛権を認める国にされてしまっていて、世界のどこかで火の手が上がれば、自分の国とは直接が関係なくても、同盟国との利害関係により、一緒に戦争に参加しなければいけない国になってしまっています。
第一次世界大戦が始まる前の国際情勢は、ナショナリズムの台頭と帝国主義により、ヨーロッパ各国が自国の覇権を巡って、来るべき戦争を睨みながら、同盟関係や密約を交わしまくっていました。
この辺り、なにやら、今の国際情勢と非常に似ているのが恐ろしいところ。
20世紀初頭、イギリス、フランス、ロシアは、ドイツの動向を睨みながら三国協商を結び、ドイツはドイツで、イタリアとオーストリアで三国同盟を結んで睨み合いをしています。
そんな状況の中、「火薬庫」と言われたバルカン半島のサラエボで、パン=スラブ主義を訴えるセルビアの青年が、パン=ゲルマン主義のオーストリア皇太子を暗殺する事件は起こってしまいます。
激怒したオーストリアは、当然セルビアに宣戦布告。
これに、同じパン=スラム主義のロシアが参戦すると、ドイツも参戦。
あとは交わした協力契約に従って、あれよあれよと言う間に各国が戦争に参加していったわけです。
サラエボ事件から一およそヶ月のうちに、ヨーロッパは、第一次世界大戦の渦に飲み込まれてしまいます。
その戦火は、やがて日本やアメリカを巻き込んで、世界中を火の海にしていくわけです。

戦争は始まってしまえば、何がどう転ぶかは予測不可能なもの。
ロシアとフランスに挟まれて不利なロケーションだったドイツが立案していた戦略シュリーフェン・プランは、ロシアが前線に兵力を動員する前に、全兵力の9割を西部戦線に向かわせ、まずフランスを叩き潰してから、電光石火で東部線線へとって返すと言うもの。
そのために、ドイツ軍はフランスの首都パリに近いベルギーを抜けて進軍しようとしましたが、当時のベルギーは中立国。
この大反則行為に結束した仏英両軍と激突したマルヌの戦いにおいてドイツ軍は惨敗してしまいます。
進軍力こそ最大の防御と確信していたドイツは、仏英軍の塹壕からの機銃操作で前線の兵士の多くを失い、自軍もまた塹壕戦に作戦を切り替えることを余儀なくされ、以降戦争は泥沼化していきます。
戦況を打開するために、両軍は度々相手軍に対して猛攻をしかけますが、結局進軍した方が返り討ちに遭う展開は覆らず。
結局、第一次世界大戦は、戦争継続を拒否したキール軍港の水兵たちの反乱をきっかけに起こったドイツ革命により終結します。
最終的にこの戦争を終わらせたのは、新兵器でも戦術でもなく、戦争そのものにノーを突きつけた兵士たちの戦線離脱だったわけです。
生身の人間たちが、命をかけて遂行していく戦争の勝敗の行方は、結局神のみぞ知ると言うこと。
この大戦を通じて、命を落とした兵士たちの数は、両陣営合わせて1600万人にものぼります。
この世界大戦から100年が経ち、今や人類は、核兵器という最終兵器を手にしました。
核戦争が始まれば、戦争であるのに、もうそこには兵士すら存在しません。
そこにあるのは、第一次世界大戦での死者を遥かに凌駕する被爆者の数だけ。
それはもう戦争ですらありません。単なる殺戮です。

戦争が始まれば、国家は国民に対して、愛国心を煽り、協力を強制してきます。
そして、そのマインド・コントロールに支配されれば、いつか国民はその「空気」を受け入れてしまうことを、戦争の歴史は証明しています。
どんな非日常でも、それに誰も声を上げずに、長い時間が経過すれば、いつの間にか人はそれを新しい日常として受け入れてしまう生き物だと言うこと。
戦争では、多くの人命が無慈悲に奪われていきます。
肉親や友人を奪われた多くの人たちは、嘆き悲しみます。
しかし、それがいつか、当たり前の日常となった時に、もはや人は涙すら流さなくなるのかもしれません。
そんな社会になれば、恐ろしいことではありますが、誰がどこで命を奪われようと、「異状なし。報告するべきことなし」で片付けられてしまうことになるわけです。

例え、異状な世界に支配されても、その中で、いかに正気を保っていけるか。
難しいところです。

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