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007 ノー・タイム・トゥ・ダイ 2021年イギリス

007 ノータイムトゥダイ

007の最新作が、Amazon プライムで配信されましたので早速鑑賞いたしました。

とりあえず、前作「スペクター」までは、全作品鑑賞済みの、マニアックな007ファンです。
例によって、本日畑仕事をしながら、YouTube の解説動画をつらつらと聞いておりましたが、本作についての評価は賛否両論ですね。
これは、ある意味致し方ないことだと思います。
とにかく、何百億という製作費を注ぎ込んで作られる大ヒット・シリーズの最新作です。
日本では考えられないような潤沢な資金を駆使して、考えられる最高のスタッフとキャストを集めて、鳴り物入りで映画は作られます。
主演のダニエル・クレイグの出演料だけで、50億円と言いますから、日本ならそれだけで、そこそこの映画が10本程度は作れてしまいます。
つまり、それだけの製作費をかけるわけですから、リスキーな冒険をして、コケるわけにいかないという事情がまずあります。
きちんと、ファンたちのニーズをリサーチし、映画界や世間の動向にも配慮し、万全の脚本を用意してから、映画は作られるわけですから、あまり振り切った作品にはならなくて当然。
はじめから、監督が、なんの縛りもなく、好きなように作れる映画でははないと言うことは決まっているわけです。
オールド・ファンから、新しいファンにまで配慮した、最大公約数的なバランス感覚の取れた作品にしなければならないという点では、どうしても興行収入の最大化を計算できるような無難な線で、映画をまとめざるを得ないというのが、この映画史に燦然と輝く最も長寿命なヒット・シリーズの持つ、ある意味では宿命ですね。

しかし、これだけのヒット・シリーズです。
ただ無難なだけのマンネリ化を続けていれば、ファンはどんどん離れていきます。
そこは、コアなファンも納得させるだけのクゥオリティと、シリーズを成立させるツジツマは確保し続けなければいけないわけですから、映画として、常に攻めていないといけないこともまた事実。
そして、作品数を重ねるごとに、そのハードルは確実に上がっていくことになるわけですから、ヒット・シリーズを維持していくのもなかなか大変なことです。
なんと言っても、第一作目公開から、すでに60年が経っている大ヒット・シリーズです。
そういう意味では、本作は、オールド・ファンからも、新しいファンからも、まずまず合格がもらえる作品には仕上がっているとは思います。
どのタイプのファンにとっても、多少のモヤモヤ感は残るけれど、とりあえずは納得というのが、初めから本作の狙っていたゴールだったかもしれません。
その意味では、本作のメガホンを取った日系四世のキャリー・ジョージ・フクナガ監督は、無難にその大役を果たしたと思います。
そのために、あれやこれやと盛り込みすぎて、少々映画の尺が、長く成りすぎた気もしますが・・

ちなみに、僕は七作目の「007 ダイヤモンドは永遠に」で初めて、映画館でジェームズ・ボンドに出会い、その後は、名画座に過去作品を追いかけ、レンタル・ビデオで最新作が見られるようになると、これを借りてきて鑑賞するようになり、そのうち、衛星放送などてオンエアされるようになると、これをまめに録画してチェックし、ここ最近の作品は、定年退職後、Amazon プライムで一気に007を追いかけてきたという世代です。
もちろんジェームズ・ボンドは、初代ショーン・コネリーから見てきたわけですから、完全なロートル007ファンですね。
やはり、多感な頃に見た007は、強烈でした。
その世代のファンから言わせてもらいますと、やはり今回の作品の正直な感想は、「いやあ、007も変わったもんだわい。」と言うのが偽らざるところ。
ション・コネリーが作り上げた初期ジェームズ・ボンドのテンプレイトを、二代目ジョージ・レーゼンビーが若返らせ、三代目ロジャー・ムーアがソフトでユーモア溢れる路線に切り替え、4代目のティモシー・ダルトンが、硬派でハードなスパイ・アクション映画に引き戻し、5代目のピアーズ・ブロスナンが、時代の流れを反映しつつ、再びショーン・コネリーの路線を復活させたという、おおよそのボンド・キャラの流れがあると個人的には思っています。
そして、2006年に「カジノ・ロワイヤル」から登場したのが、ダニエル・クレイグによる6代目ボンド・シリーズ。
彼の登場と共に、シリーズはここで一度リブートされ、以降は、本作までの全5作品が、壮大なジェームズ・ボンド・サーガになっています。
まずは、これが一作完結だった、それまでの作品とは異質なところ。
続き物になると、映画はどうしても、ボンドの人間性やプライベートにまで深掘りしてゆかざるを得ないわけで、そこには必然的にドラマが生まれてくるわけです。
このドラマ性が、決定的に、それまでのボンドとは違うところ。
映画が人間ジェームズ・ボンドの生い立ちや恋愛にまで深く切り込んでいくわけですが、これが果たして、007シリーズに必要なのかという点は、僕のようなオールド・ファンには悩ましいところ。
我々世代のファンが、007映画に何を求めていたのか。
恥を忍んで、これは、正直に申しておきましょう。
ます一つは、やはりなんと言っても、色気ムンムンのボンド・ガールたちのセックス・アピールです。
そんなボンド・ガールたちは、ほぼ例外なく、ボンドの男性的魅力に取り込まれて、あれよあれよと言うまにベッドを共にしてしまいます。
ボンドは、そんな彼女たちを、時には引っ叩いたり、時には拳銃の盾にしたりと冷酷非情もいいところ。
そして、自分と関わったことで、彼女たちが殺されることになっても、ボンドは眉ひとつ動かしません。
今の世の中の物差しで言えば、女性軽視と言われても、文句の言えないキャラがジェームズ・ボンドで、申し訳にくいところですが、これが男としてカッコよく見えたと言うのも否めないところ。
一般男子には、逆立ちしても果たせぬクールなサイコパス願望を、ボンド映画を見ることで果たしていたわけです。
映画というものは、「非日常を楽しむエンターテイメント」であるはずですから、少々のモラル崩壊には目をつぶっても、映画の中なら許される範囲と思っていた節がありますね。
バチッと決まったスーツに身を包み、高級嗜好品を身につけ、いい車に乗り、高級な酒を飲んでは、世界中を飛び回る。
いわば、男の古典的で本能的な欲望を、スクリーンの中で満たしてくれる存在が、ジェームズ・ボンドで、我々映画ファンは、それを楽しみに映画館へ足を運んでいたようなところがあります。
そして、そこに、いかにもわかりやすい悪役を用意して、とびっきり極上のアクションを振りまけば、もうそれだけで007映画としては一丁あがり。
あとは、ファンが望む萌え素材を、上手に繋ぐストーリーだけを用意すれば、それほどコッテリとしたドラマは不要と言うのがこのシリーズのはずでした。
重々しいドラマは、かえって、ジェームズ・ボンドの魅力を削ぎかねない。
人を殺しておいて、顔色ひとつ変えずに、軽口の捨て台詞の一つも吐けるくらいのメンタルがなければ、ボンドは務まらんだろう言うのが、僕ら世代の007ファンであることは、白状しておきましょう。
これはもう、多感な頃に完全に刷り込まれてしまっているイメージですから、もはや、道徳的かそうでないかという問題ではありません。

しかし、例えそれが、僕のような旧ファンからは、永年にわたって認められ続けたキャラであったとしても、新たなファンたちも増えていく訳ですから、それもひっくるめて、万人が楽しめる娯楽としてシリーズを継続していかなければならないのが、長寿に成りすぎたこのシリーズ維持の難しいところ。
新しく生まれてくる価値観を黙認してまで、古いスタイルに固執してしまうことになると、やはり、いずれはシリーズの興行成績にも反映されるにことになるという危機感は、製作プロダクションにもあったのだと思われます。

映画を、あくまでも娯楽として、本能的に楽しんでいた時代から、今や映画を見ている人たちのリテラシーも格段に向上してきています。
当然のことながら、映画製作にも、映画が社会に与える影響力がしっかりと配慮されるようになり、男女平等や、正しい人種意識を、きちんとベースに置いたニュー・ボンドがスタートを切ったのが、ダニエル・クレイグからのボンド映画だったわけです。

考えてみれば、僕らが歓喜した60年代の、007シリーズの主要キャストに、黒人俳優は、ほぼエントリーされていません。
僕の記憶では、「007ダイヤモンドは永遠に」の中の、ボンドと格闘するワンポイント・ボンド・ガールの中に、足のスラリとした黒人女性がいたくらいですね。
その後、「死ぬのは奴らだ」で、敵の首領サメディ男爵役で、ジェフリー・ホールダーが初めてメイン・キャストの黒人俳優としてキャスティングされて以来、その後のシリーズでは、超エキセントリックなヒール・メイデイを演じたグレイス・ジョーンズ、「ダイ・アナザー・デイ」で、初めて堂々のメイン・ボンド・ガールにキャスティングされたハル・ベリーなどはいました。
しかし、ダニエル・クレイグ・シリーズになると、レギュラー陣の中にも、黒人俳優がキャスティングされるようになってきます。
Mの秘書ミス・マネーペニーも若い黒人女優ナオミ・ハリスが演じ、オフィスから飛び出して、よりアクティブにボンドのサポートをするようになりましたし、CIAのエージェントで、ボンドの親友でもあるフィリックス・ライターも黒人俳優ジェフリー・ライトが演じていました。
そして、本作には、ジェームズ・ボンド引退後の007として、バリバリに活躍するMI6の諜報員ノーミとして、ラシャーナ・リンチという黒人女優がキャスティングされています。
この辺りの時代感覚を反映したキャスティングは、本シリーズ以外のヒット映画にも確実に浸透している傾向です。
そういった最新の映画も鑑賞するようになって、こちらも次第に慣らされているようで「時代は変わっているんだなあ」という感慨を抱くことはあっても、それほどの違和感はなく受け入れられるようになってはきたところです。

そんな中で、ボンド・ガールもやはり様変わりしてきました。
それは、これまでのボンド・ガールという呼び方を、本作の製作陣が意識的に、ボンド・ウーマンという呼び方手に変えていることからも窺えます。
本作のメイン・ボンド・ウーマンは、前作から引き続きマドレーヌ・スワンを演じたレア・セドゥ。
決して、これまでのボンド・ガールのように、セックス・アピールを前面に押し出したキャラクターではありません。
ジェームズ・ボンドに心からの ”I love you”を言わせる、日本人好みのミューズ役を堂々と演じています。
もう1人、本作でボンド・ウーマンを演じたのは、新人CIAエージェントのパロマを演じたアナ・デ・アルマス。
「ブレードランナー2049」でも、印象的な役を演じていましたが、本作でも、キューバのシーンだけにしか登場しない役ではありましたが、場面をかっさらっていった感があります。
胸元の開いたかなりセクシーなドレスに身を包んでいるのですが、これまでのボンド・ガールのように、「お約束の」のアバンチュールは一切なし。キス・シーンもなければ、ベッド・シーンもありません。
しかし、そんなしどけないドレスのまま、いざスペクターとの大銃撃戦が始まるや、ボンドも顔負けのアクションを披露。
新人エージェントながらも、ボンドと対等な立ち位置で奮闘し、任務が無事遂行されれば、「はい、お疲れ」みたいな感じで去っていくと言うように、プレイボーイのボンドを煙に巻くという、全く新しいタイプの痛快なボンド・ウーマンを演じてくれていました。
2人とも、これまでにはいなかったタイプのヒロインです。

しかし、本作は、僕らのようなロートル・ファンをくすぐることも忘れていません。
シリーズお約束のガンバレルのオープニングは、きちんと冒頭からありましたし、あの決め台詞「ボンド。ジェームズ・ボンド。」や、カクテルを注文するシーンで、「マティーニをステアではなく、シェイクで。」という決め台詞も、ちゃんと登場。
この辺りのサービスを、きちんとやってくれると、単純なファンとしては、やはり嬉しくなってしまいます。
本作では、三作目の「ゴールド・フィンガー」で登場した名車アストンマーティンも大活躍。
ここまでの4作は、メカに頼らないフィジカルなアクションを極めてきたダニエル・クレイグ版007でしたが、本作に登場するアストンマーティンはフル装備。
ヘッドライトからニューッと出てくるマシンガンや、後方車をパンクさせる鉄びし、機関銃の連射にも耐えうる防弾ガラスなど、これぞ007ともいうべき秘密兵器のオンパレード。
水陸両用とまではいきませんでしたが、これは、古いファンにとっては痺れます。
本作品の悪役サフィンを演じるのは、「ボヘミアン・ラプソディ」でフレディ・マーキュリーを演じたラミ・マレックですが、彼のアジトがあるのが、日露の間で領土問題になっている島という設定で、明らかに北方領土を意識した設定ですが、基地内のデザインが、かなり微妙な和風になっています。
これは、日本を舞台にした第5作め「007は二度死ぬ」に、かなり通じるテイストでニンマリ。
引退したボンドを引っ張り出して、諜報員としてカムバックさせると言う設定は、実は007の番外編である、1967度版の「カジノ・ロワイヤル」がそうでした。
あちらは、完全にハチャメチャなパロディ映画で気がつきませんでしたが、ラストも含めて、その設定はよくよく考えてみるとかなり酷似しています。
悪役が、細菌兵器により、世界を思いのままにしようという設定は、6作目の「女王陛下の007」と同じです。
この6作目は、シリーズで初めてバッド・エンドを採用したこともあり、公開当時はかなり異端なボンド映画として、それまでのボンド・ファンからは、かなり酷評されたものですが、時代を経るに従って、徐々に再評価されてきたという作品です。
フクナガ監督が、この「女王陛下の007」にかなりのリスペクトを寄せていることは、ラストで、ルイ・アームストロングの「愛は世界を越えて」を使用していることからも明らか。
この曲は、6作目の主題歌でしたね。
旧作の主題歌が、改めて、挿入歌として使用されたと言うのは、「ジェームズ・ボンドのテーマ」以外では、この曲が初めてのことでしょう。
思えば、この6作目で、ボンドは初めて正式に結婚(「二度死ぬ」で、浜美枝との偽装結婚はありましたが)をするわけですが、シリーズの中で、ジェームズ・ボンドのプライベートに初めて切り込んだのが「女王陛下の007」でした。
しかし、当時のファンにはこれが受け入れられず、シリーズは再び、従来のスタイルに戻ることになるわけですが、ダニエル・クレイグの時代になって、再び人間ボンドにスポットを当てる作劇スタイルがトライされたことになります。
そして、このニューボンドは、興行成績からいっても、しっかりと現代のファンには受け入れられる結果になりました。
その意味では、1969年時点での路線変更は、まだ時期尚早だったと言えるのかもしれません。

とにかく、人として優しく、愛に苦悩し、最後は愛する人や人類を守るために我が身を犠牲にするダニエル・クレイグ演じるジェームズ・ボンド・サーガは、フクナガ監督の力量により、とりあえずは、世界中のファンに受け入れらるカタチで、感動のラストを迎え、本作をもって完結します。
本作の衝撃のラストを見せられて、同時に気になってしまったのが、エンド・クレジットの一番最後に出てくるおなじみのやつです。
これは、しっかりと確認しましたが、いつもの通りちゃんと出ていましたね。

“James Bond will return”

本当なら、この後に次回作の作品名が続いて、ファンの次回作への期待を膨らませてくれるのですが、作品名は表記されていないところを見ると、現時点では企画は白紙なのでしょう。
Covid-19の影響もあって、本作の公開は、前作から5年も経っていましたが、今やこのモンスター・シリーズは、これまでのように2〜3年ごとにポンポンと作れるような映画ではなくなったと言うことかもしれません。
しかも、次作ではジェームズ・ボンド役もリニューアルとなります。
本作において、あのラストを迎えさせてしまった以上、シリーズはまたここで大幅なリブートがされることは必至です。
常に時代の変化と流行に目を光らせてきたこのシリーズが、次回作でいったいどんな変身をするのかは、ファンとしては、とても興味深いところ。
今更、僕の世代が歓喜した古いボンドへの復活を望むことはありませんが、頭の固いオールド・ファンと思われるのも癪なので、世界中のファンが認めるなら、シリーズの生え抜きのファンの意地として、今後登場してくる新しいボンドにも、とことんついていこうという気はありますね。

本来であれば、ダニエル・クレイグの007シリーズは、前作で終了していてもおかしくないところでした。クレイグ自身もそのつもりでいたはずで、「自分この作品を最後に降板する」と公言していました。
しかし、製作陣の強いリクエストで、引き続き、本作にも出演することになったという事情はあったようです。
そうとなれば、この映画を、彼の花道として華々しく盛り上げるのは、彼に対する仁義というもの。
その意味では、本作のラストは、ああならざるを得なかったという気はしてしまいます。
しかし、そういった呪縛からは、一旦解放されることになるのが次回作ということになりますから、全く新しい発想のジェームズ・ボンドが登場する可能性は大です。
ニュー・ボンドが女性、あるいは黒人、もしかしたら、日本人と同じ顔をしたアジア人である可能性だって、決して否定できません。
いいでしょう。いいでしょう。
なんでも来なさい。
こちらとしては、受けて立つ所存です。
映画ですから、結果として、面白ければなんの文句もありません。

とりあえず、15年間の長きにわたって、007シリーズの人気を、体を張って支えてきたダニエル・クレイグには、感謝の意を伝えるのみ。

ありがとう。
そして、お疲れ様でした。

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