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ジャングル・ブック 2016年アメリカ

せっかく、ディズニープラスに登録しましたので、いつものAmazon プライムはお休みして、この一ヶ月はこちらを楽しませてもらうことにします。

さて、今回は2016年製作の「ジャングル・ブック」です。

この作品は、ちょっと関心がはありました。
畑仕事をしている最中は、よくBGM代わりに、YouTube で「WOWOWプラスト」(現在は終了。過去のアーカイブが観れるのみ)を聞いていた(見るのではなく)のですが、この番組は、「エンターテイメント深掘りトーク番組」というキャッチコピーが示す通り、一つのテーマで、その筋の見識者たちが、じっくりと語り合っていくというスタイルのネット番組です。
そこで聞き入ってしまったテーマの一つが「最新CG事情」みたいなことだったと思うのですが、そこで取り上げられていたのが、この「ジャングル・ブック」でした。
この映画の実写部分は、少年の部分だけで、後の全ては、動物たちも背景も含めてCGだというわけです。
映画の草創期であれば、実際のロケに子役を連れて行き、多少危ないシーンでも演じさせてしまうという無茶も通用したのですが、今のハリウッドは、人権問題にはとてもナーバスで、そんなことは絶対に許されない状況だということを、その番組で知りました。
子役を使うにあたってのNG行為が、契約書にはビッシリと書き込まれていて、ちょっとでも、子供を危険に晒すような撮影は出来ないことになっているんですね。
そんな状況の現在のハリウッドで、実写化されたのが本作です。
ですから、少年は本作の全ての演技を、安全を徹底的に確保されたスタジオ内の巨大なブルーバックの前で行い、そのほかのすべてのパーツはCGで作られ、後からクロマキー合成をして、映画は完成したというわけです。
1993年に、スピルバーグ監督の「ジュラシック・パーク」を見て、車のライトを浴びて、ティラノザウルスの瞳孔が縮むシーンに驚かされ、おおっ、ついにCGもここまで来たかという感慨にふけったものですが、それから更に進化したCG技術は、ついにアニメではない動物たちに、違和感なく「言葉を喋る」演技までさせ、自然現象さえも、書き割りではない、動く演技者として、自由に台本通りにコントロールできるようになっているのかと、ため息すらこぼれましたね。
もはや、CGを駆使すれば、映画の中では表現できないことはないところまで来たのか。
そう思うと、アナログ育ちのクラシックな映画ファンとしては、ちょっと複雑な思いになっていました。

「ジャングル・ブック」は、1967年にアニメとしても公開されていますが、これはうっすらと覚えています。
ディズニー・アニメは、映画館で見た記憶がハッキリとあるのは「101匹わんちゃん大行進」が最初でした。
犬達目線で映画は作られていて、人間は下半身しか映っていない演出を、妙に覚えています。
「ジャングル・ブック」も、映像のイメージはなんとなく残っているのですが、果たしてそれが、映画を見た記憶なのか、絵本の記憶なのか、ポスターの記憶なのか、その辺りは正直ちょっと定かでありません。
キャラクターたちの造形はかなり記憶にあったつもりなのですが、今思うと、子供の頃、大好きだった東映アニメの「狼少年ケン」や、虫プロの「ジャングル大帝」のキャラクターたちと、かなりごちゃ混ぜになっているような気もします。
しかしどちらのアニメも、日本では、このディズニー・アニメ版「ジャングル・ブック」よりも前に作られていますので、アニメ先進国の人気作品が、ディズニー版を作るにあたって参考にされた可能性は、大いにあったと思われます。
ディズニー作品の中には、「海底二万里」のような、立派な実写SF作品もあるのですが、この「ジャングル・ブック」の世界は、さすがに実写で表現するのは相当難しいだろうと考えてしまいます。
しかしアニメならさにあらず。
虎や熊が喋ったり、歌ったりするのには、アニメなら、もちろんなんの違和感もありません。
それこそ、ファンタジーの大道というもの。
ディズニーは、この世界を極めて、現在の地位を獲得したのは、世界中の子どもたち(あるいはかつて子供だつた人)が百も承知です。
反対に、ディズニー作品の中には、「砂漠は生きている」「灰色熊の一生」のような、生の動物たちにカメラを向けた優れたドキュメンタリー作品もあります。
しかし、こちらに登場する動物たちは、一切人間の言葉は喋りませんし、演技もしません。
彼らのありのままの姿に、人間のナレーションがはいるのみです。
ディズニーは、この両極のスタイルをきちんとエンターテイメントにしてきた実績はあるわけです。
しかし、今回の「ジャングル・ブック」は、そのどちらでもない新しいスタイルのディズニー映画になるのではなかろうかと思い、興味があったわけです。
多額の製作費さえかければ、今のCG技術で表現できないことはないというところまで、映画制作の現場がデジタルに進化しているというところまでは理解しました。
しかし、問題はその先です。
その技術を駆使して、アニメではないリアルな動物たちが、人間の言葉を喋って台本通りの演技をしたとして、果たして、アニメ作品のような「楽しく明るい」ディズニー・ファンタジーが展開出来るのかという話ですね。

「不気味の谷現象」というのがあります。
ロボット工学の文脈でよく使われる人間の心理現象で、ロボットを精緻に、人間に似せて作っていく過程で、それまでロボットに対して抱いていた好感が、一転して、嫌悪感や薄気味悪さに変る段階があると言うんですね。
これは、自分の経験からも、思い当たる節があります。
スーパーマリオネーションで作られたお馴染みのSF人形劇「サンダーバード」は、日本の少年たちを虜にしましたので、覚えている人も多いと思います。
登場する人形たちは、例えば日本の人形劇「ひょっこりひょうたん島」に比べるとかなり精巧で、より人間に近い造形で驚いたものです。
しかし、今思えば、その人形たちは、精巧ではあるのですが、やはりどこかアニメ的にデザインされていて、かなりデフォルメされたキャラクターにはなっていました。
ゆえに、「サンダーバード」は、子供心には、「鉄人28号」や「エイトマン」の延長線上で楽しめていたわけです。
しかし、その後に登場したスーパー・マリオネーション・シリーズの「キャプテン・スカーレット」はちょっと味わいが違いました。
その技術はそこからさらに進歩して、さらに緻密に、人間の造形に近い人形たちが登場してきたわけです。
覚えているのは、この人形たちは、サンダーバードのキャラクターのように、アクティブではありませんでした。
おそらくは、精巧に作られた人形は、動かせば動かすほど、人間のイメージからは遠ざかるという演出意図があったのでしょう。
手元のアップなどは、実際の人間の手の実写を使っていた記憶です。
「サンダーバード」のキャラたちよりも、さらに精巧に作られ、グレードアップしたマリオネーションのリアルさが、「キャプテン・スカーレット」のウリではあったのですが、どうもこれが、裏目に出た可能性があります。なぜか、「サンダーバード」のようには楽しめないんですね。
確かに、人形たちは精巧に作られ、お金もかかっているのはわかるのですが、どこか中途半端で、少々不気味でした。
これは、登場する人形たちがあまりにリアルすぎて、見ているこちらが「不気味の谷間」に落ちてしまっていたことが原因だろうと、今ならば推測できるわけです。
「キャプテン・スカーレット」には、「サンダーバード」に負けないくらいの魅力的なメカもふんだんに登場して、こちらの部分では大いに楽しませてくれました。
ですから、これが人間が演技する実写版であれば、「不気味の谷」現象は理屈上起きないはずですので問題はないのですが、これを精巧な人形で作ってしまったのが、「キャプテン・スカーレット」が、「サンダーバード」ほどは、子供たちに受け入れられなかった原因だったろうと思うわけです。
後に、「不気味の谷現象」というものを知った時、真っ先に脳裏に浮かんのが「キャプテン・スカーレット」でした。

さて、本作では、これが人間ではなく、生の動物ということになります。
ディズニー・アニメに登場する動物たちは、これまでも、実に楽しく歌い踊り、人間の言葉を喋ってきました。
当たり前にステップを踏んで歌い、怒り泣き、腹を抱えて笑うわけです。
当然、実際の動物たちはそんな感情表現はしないわけです。
そんなリアルなCGで表現された彼らに、人間の言葉を喋らせ、物語を進行させるための演技をさせて、果たして、夢のディズニー・ワールドが成立するのかという興味があったわけです。

では、本作を見終わった後の結論から申し上げましょう。
少なくとも、還暦過ぎの老人の目からみれば、その「不気味の谷」に落ち込む危惧は上手に回避されていましたね。
さすがは、エンタメの帝王ディズニーです。
莫大な製作費をかけた娯楽大作を、そんな不気味な印象になる中途半端な作品にはしていませんでした。
アニメではない、ほとんど実写の動物に見えるような本作のリアルな動物キャラたちは、映画の中で、確かに人間の言葉を操り、喜怒哀楽の表情を作り、時には歌ったりもするのですが、そのどれもが実際の動物たちの感情表現や仕草の範疇を超えたオーバーアクトにならない範囲で、きっちりと演技が成立しているんですね。これが巧みでした。
これは、制作段階で、相当綿密に計算されていたように思われます。
CGだからといって、もしも彼らに実際の動物なら見せるはずがない、「人間のような」仕草や演技までさせてしまったら、おそらく、違和感や、気持ち悪さにつながっていたのではないかと思われます。
アニメなら膨らませるだけ膨らませられるデフォルメが、リアルキャラでは、やはり限界があるということです。
昔見たアメリカ製のアニメで、口元だけを俳優の実写と合成してセリフを言わせていたものがあったのですが、あれは正直気持ち悪かった。
「CGで作られた映画なんだから、あり得ないことでもやってしまえばいいだろう」ということにはならないのが、エンターテイメントの難しいところです。
わかってはいても、理性では計算できないのが、「不気味の谷間」なのですから。

そんなこんなをクリアして、映画は、新しいスタイルのディズニー映画として、世界中で大ヒットしていますから、本作は世界中のファンたちの「不気味の谷間」問題は、難なくクリアしたと考えていいのでしょう。
ただ、興味があるのは子供たちの反応です。
例えば、本作と1967年度のアニメ版とを両方見せて、彼らにどちらが面白かったかを率直に聞きたいところではあります。
できれば、小学校低学年までの子どもたちに聞いてみたいですね。
子供たちなら、もしかしたら、やはり、アニメの方が楽しいと言ってくれてもおかしくはない気はしますが、待て待て。
今の子供たちは、TDLなどで、アニメの世界を現実化した実際のテーマパークを経験していますし、思い切りリアルなRPGで毎日遊んでいるので、すでに幼少期から、事実上、「不気味の谷」現象を回避する訓練をしていることになるのかもしれません。
家で飼っている犬や猫が、ある日突然喋り出したら、大人たちは腰を抜かすでしょうが、今の子供たちなら、あっさりと、それを現実として、受け入れてしまうような気もします。
「不気味の谷」にそう簡単に落ちないメンタリティが、進歩したCG技術の作り出す世界にどっぷりと浸っている世代には、すでに出来上がっているのかもしれません。

CG処理は、気がつけば映画製作の常識になりつつあります。
しかし、なかにはクリストファー・ノーランのように、CGを使うことを潔しとせず、全て実写という映画表現にこだわる監督もいます。
そこには、厳然たる「質感」の違いはあると多くの人がいいますが、本作のような作品を見せられてしまうと、もはや、そんな壁さえも、今のCG技術は軽々と超えてきているのではという気にはさせられます。

もしかしたら、全て実写だと思っていた映画が、実はフルCGの映画だったなんていう作品が、そのうち当たり前になる時代が来るのかもしれません。

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