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日本とインドネシア

「日本帝国主義が三十数年間も韓国を侵略したために、韓国は防衛体制が確立できなかった。その責任は日本にある」。

1973年11月19日から21日にかけてマニラで開催された「第3回東南アジア諸国連合(ASEAN)首脳会議」の議事録に、以下の内容が記載されているんですね。
それが何かというと、会議の進行とは関係なく、突然韓国代表が始めた日本バッシングの演説を聞いていたインドネシアのアリ・ムルトポ将軍が、何も反論することのなかった日本代表に代わって、日本を擁護するためにした演説です。

「朝鮮人は自ら戦わなかったくせに責任を日本に押し付けるとは何事か。
もしアジアに日本という国がなかったと仮定してみよ。
1899年の義和団事件以来、ロシアは満州に大軍を駐留させ朝鮮を狙っていた。
朝鮮が戦わないから日本が戦ったのだ。これが日露戦争だ。
朝鮮は日本が敗けると思って裏でロシアと繋がっていたではないか。
もし日本が戦わなかったら朝鮮はロシア領になっていたことは間違いなかった。
ロシア領になっていたのは朝鮮ばかりではない。支那も北半分はロシアが支配し、揚子江以南はイギリスとフランスが支配しただろう。遅れて登場したアメリカはどうやって支那大陸に食い込むか企んでいた。
そもそもアジア混迷の遠因は支那にある。支那はアヘン戦争でイギリスの不当な要求に屈して簡単に降参してしまった。
その時支那はなぜ徹底して戦わなかったのか。
イギリス・フランスを大陸に引き込んで蒋介石のように戦えば勝てたかもしれない。
“中華”と誇る支那が不甲斐なく敗けたから日本が大東亜戦争を戦わざるを得なくなったのではないか。この責任は支那にある。
そもそもアジアで戦ったのは日本だけではないか。
もし日本という国がなかったらアジアは半永久的に欧米植民地勢力の支配下に置かれていたのではないか。」

韓国代表はこうもいったそうです。

「私たちは、日本の隣国であることを不幸に思う。出来るなら日本には違う場所に引っ越してもらいたい。」

すると、ムルトポ将軍は、韓国代表に向かって静かにこう言ったそうです。

「出来れば私たちが、貴国とその場所を変わりたいと思う。そうすれば、我が国の経済発展は、今以上に進んだはずだから。」

韓国代表は、それ以上もう何もいえなくなったとのこと。

まさに、こういうのを溜飲が下がるというわけですね。

もう今から50年以上も前の話ですが、その会議の場を想像するだけで、グッと来てしまいます。一応日本人である身としては、こんな古い記事を目にしただけでも泣きそうになるわけです。
しかし、それと同時に思うことは、おい、その場にいた日本代表よ、なんで公の場でこれを言われて黙って下を向くのか。
何事にも「言い訳をしない」のが日本人の美徳という方もいらっしゃるでしょう。
しかし、それではちょっと情けないんじゃないのという気もムクムクと湧き上がってきてしまいます。
ではどうして、インドネシアの代表が、国際会議の場で、日本を擁護する発言をしてくれたのか。

実は若かりし頃、インドネシアのバリ島に遊びに行ったことがあります。
一週間ほどの滞在でしたが、この国の人たちは、異様に日本人に優しいなということは、肌で感じた経験があります。
そんなこともあり、インドネシアという国が、世界でも有数な親日国家であるという認識は持っていました。
しかし、ムルトポ将軍が述べたような、世界史における背景知識は自分にはまるでないぞということにも気づかされ、遅ればせながら大いに自己反省。

そこで、「トリオ・ザ・AI」(ChatGPT、Bing, Bard)の指導を仰ぎながら、日本とインドネシアの関係について勉強してみました。

まずは、インドネシアの歴史について。

インドネシアという国は、1602年から350年の長きにわたってオランダの植民地でした。
植民地というわけですから、オランダの目的はひとつ。自国の経済発展のためにインドネシアを利用しようというわけです。
もちろん、この植民地化によりインドネシアは、西洋文明に触れ、ヨーロッパ式のインフラも整えられていくことにもなります。
しかし、これによりインドネシア人は、自分たちが口にすることのないコーヒーや香辛料といったヨーロッパ人のための嗜好品の栽培を強制され、自分たちのインフラとなる農産物の生産を制限されます。
そして、経済的、政治的、文化的にも抑圧されたため、彼らは次第にオランダからの独立を志向するようになりました。

さて、この時代からさかのぼること数百年。
インドネシアの東ジャワに、クディリという王国がありました。
この国にジョヨボヨという王様がいて、この王様がこんな予言を残していたんですね。

「わが王国に混乱が生じるが、どこからか現れる“白い水牛”の人に長期に支配されるであろう。彼らは魔法の杖を持ち、離れた距離から人を殺すことができる。
北の方から“黄色い”人が空から下りてきて、白い人を追い出し、代わって支配するが、それはトウモロコシ一回限りの短い期間である。 」

12世紀の東南アジアの王様が、20世紀のアジア世界史を予言できるはずはないですから、どこかでこの伝承は大いに盛られている可能性は大ですが、それにしても、この描写は予言としてはかなりリアルです。

"白い水牛"はもちろんオランダ人と捉えられたのでしょう。
遠くから人を殺すことの出来る「魔法の杖」は、ライフルですね。
これが、実際に現実のものとなり、自分たちの生活を脅かす存在になると、彼らはこの次にある空から下りてくる「黄色い人」は誰かと期待するようになります。
この伝説は、18世紀くらいのインドネシアでは影絵の物語となり、人々の間に伝播していったそうです。

そして、1942年2月19日。「黄色い人」は、ついに空から下りてきました。

日本陸軍今村均中将率いる陸軍第16師団は、まさにパラシュートによる降下でジャワ島の大地に降り立ったのです。
インドネシア人と同じ「黄色い顔」をした日本軍はとにかく強かった。
抵抗するオランダ軍を瞬く間に蹴散らし、たった10日間あまりで、ジャワ島を制圧し、オランダ領東インド全域を日本の軍政支配下に置いてしまいます。

あまりにジョヨボヨ王の予言通りの、劇的な日本軍の登場を、現地の人たちは歓喜の声を上げて迎えたといいます。

ジャワ島の部落の長老は、おそるおそる今井中将にこう聞きました。

「あなた方は、黄色い人なのか?」

今井中将が、この予言のことを知っていたかそうでないかは、知る由もありませんが、彼はこの長老に向かって毅然とこう答えたというのです。

「我々日本民族の祖先にはこの国から船で日本にわたってきた人々もいます。
 皆さんと日本人は兄弟です。
 我々はみなさんに、自由をもたらすために戦うのです。」

いや、カッコいい!
というよりも、ここまで来るともう「カッコいい」を通り越して、神がかってさえいます。

さて、この日から日本の敗戦が決まる1945年8月15日のその日まで、日本軍によるオランダ領東インド(インドネシアの当時の呼び名)の占領政策が始まります。

そのあたりを調べてみますと、「日本軍による占領中の残虐行為は、インドネシア人の反日感情を高めた」という内容も実は散見されます。
しかし、現実問題として、現在に至るまで、インドネシアという国が、我が国の隣国に比べればはるかに親日国家であるという現状は厳然としてあります。
これを踏まえれば、この時期の日本の占領政策が、現地の人にとっては概ねシンパシーを得られるものになっていたと考えていいのではないかとも思う次第。

このあたりを、「日本」や「インドネシア」という国家レベルの言説にしてしまうと、清濁併せ持ついろいろな利害が絡み合って、なかなか真実は見えにくくなってしまうもの。
「日本の統治は素晴らしかった」「インドネシアは、日本の占領政策の犠牲になった」
実際ネット上にも、いろいろな意見が錯綜しています。
もちろん、僕自身にも、その中身を吟味できるような歴史知識があるわけではないので、最後は私見になってしまうことはご容赦いただきますが、個人的には、ただ一点の理由において、日本軍のインドネシア占領政策は、基本的に世界にも類を見ない人道的なものだったと確信するに至った次第。その理由とは何か。

それは、ジャワ島の占領政策を指揮したのが今村均中将という人物であったということです。
調べてみると、この人はなかなかの人です。
今村は、あの時代には珍しい、高い人権意識を持つ指導者として、後になって「徳の人」と評価されたような人でした。
終戦後、「戦争責任」から逃げ回っていた当時の軍指導者の中にあって、彼はその生涯にわたって、この思い重責と真摯に向き合い続けました。
東京裁判において、懲役10年を言い渡された今村は、東京の巣鴨プリズンに収監されますが、その直後から、GHQのマッカーサー元帥に自ら直訴して、南方のマヌス島で、劣悪な環境の中、収監されているかつての部下たちと共に服役することを志願し認めさせます。
彼は、いまだに現地で苦しい思いをしている部下がいるにもかかわらず、東京の恵まれた環境の中で自分だけがぬくぬくと服役することを潔しとしなかったわけです。

これには、シビれました。
彼に関する逸話は、彼が後に出版することになる回顧録に詳しく書かれているわけですが、もうこの一点だけで、この人の人格は信用に値すると確信しました。

さてそんな今村中将が、ジャワ島で実施したことは、日本国大本営の方針というよりは、むしろ自らが定めた「戦陣訓」に基づくものでした。
陸軍大学校を首席で卒業した彼は、「八紘一宇」というスローガンを、日本軍の中の誰よりも深く吟味し、自身の中に落とし込んでいた軍人だった稀有な人物だったといえます。

その冒頭にはこうあります。

「皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし」

簡単に言えば「天皇の本義がそうであるように、思いやりを持って、罪のない住民を愛護せよ。」ということ。
今村は、この規律を部下たちに徹底させることで、次第に住民たちの信頼と協力を獲得していくことになります。
戦時中、連合軍が破壊した石油精製施設の復旧に着手した彼は、地元民衆の協力を得てこれを迅速に実現させ、石油価格をオランダ時代の半額にしました。
現地住民はこれに歓喜します。こんなこともありました
現地で生産される白木綿の大量輸入を要求してきた日本政府に対して、これを取り上げることは現地人の日常を圧迫し、死者を白木綿で埋葬する彼らの宗教心までも傷つけるとして、今村は断固これを拒否します。

インドネシアの独立を現地の人に約束した彼は、その第一歩として、それまで300あまりの民族がそれぞれに使っていた現地語を、インドネシア語一本に統一し、全国民の意思統一が容易にできるようにします。
各所に学校や軍事教練所などの施設を建設し、日本軍兵士をその指導に当たらせます。
ここで学んだ若者たちは、後にPETAと呼ばれるインドネシア独立軍を組織して、祖国を牽引する原動力となっていきます。
また、オランダによって禁止されていた、インドネシアの独立歌を公式の場で歌うことを許可。
そして、これの歌を現地の人に広く浸透させるために、日本本国でレコードにして全国に配布します。
まだまだあります。
彼らの政策はなんと、元支配者のオランダ人にとっても寛大なものでした。
捕虜となったオランダ軍人は、敵対行動をとらない限り、自由な現地人との交流を認めました。
そして、オランダ軍によって捕らえられていた独立指導者スカルノやハッタを解放。
今村は、スカルノにこう言ったそうです。

「あなたに日本軍に協力せよとはいいません。独立指導者として、自分の信ずる道を進んでください。」

これにもシビれました。こんなことをいえる指揮官なんてそういるものではありません。
やはり、この今井均という人物はただものではありません。

しかし、この今村中将の寛大な占領政策に、内地の日本軍大本営は実は眉をひそめていました。
当時の東南アジア方面の各師団長からも、「今村の政策は現地に甘すぎる」との苦情を続々と送られてきます。
見過ごすことはできないと判断した日本陸軍は、現地に調査団を派遣することになります。
しかしその調査団のレポート結果は以下の通り。

「原住民は全く日本人に親しみを寄せ、オランダ人は敵対を断念し、華僑に至っては日本人に迎合これをつとめており」

加えて、現地の治安状況はすこぶる良く、産業の復旧も著しく、軍事物資調達の成果も抜群とあっては、陸軍首脳部も文句のつけようがありません。

しかし、今村中将は、それでも黙ってみてはいられなかった司令部により、突然ラバウル島へと左遷させられてしまいます。

彼は新しい赴任先のラバウル島でも伝説的な指揮をすることになるのですが、これはここでは割愛。
興味のある方は調べてみてください。

さて、今村の後に着任した二代目となる新司令官は、司令部の意向を十分に心得た人物でした。
今村の人道的占領政策はことごとく反故にし、現地人に対して圧政を敷いていきます。
現地の人の日本に対する感情は大きく揺れ始めることになります。

そうこうしているうちに、第二次世界大戦の戦局は、日を追うごとに悪化。ついに日本軍は連合国軍の無条件降伏を受け入れます。
しかし、再び連合国によって植民地化されることを嫌ったインドネシアは、終戦の日の二日後に、独立宣言をします。
その宣言文を読み上げたのは、今村に救い出され、後にインドネシアの初代大統領となるスカルノです。

しかし、もちろん大戦で戦勝国となった元占領国のオランダがこれを黙ってみている訳はありません。
イギリスの協力を得て、再びインドネシアを自国の植民地にすべく、軍隊を向けてきました。

しかしです。
この時のインドネシア国民は、もうオランダに植民地支配されていた頃の彼らとは違いました。
日本軍の指導の下、愛国心と独立への気概を学習していた彼らは、軍人としても確かなスキルを身に着けていたのです。
そして、なによりも、自分たちの目の前で、自分たちを征服していたオランダ人が、自分たちと同じ肌の色をした日本軍によって一掃される光景をその目に焼き付けていたことは、かれらに戦う勇気を与えました。
彼らは、自分たちにもやればできるという気持ちを奮い立たせ、イギリス、オランダ軍との独立戦争に挑みました。

そして、そんな彼らの前に、強力な援軍が現れます。

それは日本軍の敗戦によって、武装解除を命じられていた元日本軍の兵士たちでした。
その数は、1000人とも2000人ともいわれています。
その若き兵士たちは、敗残兵としてそのまま内地へ戻ることを潔しとせず、司令部の命令を無視して、自分たちの所持していた武器を、独立軍に惜しみなく提供し、たくましく成長していたかつての教え子たちとともに、インドネシアの独立戦争の戦火の中に身を投じました。

圧倒的な兵器力の差があるにもかかわらず、独立軍は善戦しました。彼らは不屈の精神で立ち向かいます。
なかなか進展しない戦況に早々に見切りをつけたイギリス軍は撤退しますが、かつての支配者であるオランダ軍はなかなか諦めません。
インドネシアの独立戦争は、第二次世界大戦直後から、4年近く続きますが、インドネシア軍の善戦を受けて、次第に国際世論が動き始めます。

再びインドネシアを植民地化しようというオランダに対して、新しい時代の国際秩序にそぐわないという非難を浴びせるようになります。
そしてオランダも、次第にこの声を無視できなくなってきます。
結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立することになります。

インドネシア独立戦争に参加した旧日本軍の兵士たちは、この戦いにより、実にその半数が命を落としています。
司令部の命令に従わなかった彼らは、公式には「脱走兵」という扱いを受けていました。
しかし、インドネシアでは、彼らは独立に貢献した英雄として、ジャカルタのカリバタ英雄墓地をはじめ、各地の英雄墓地に葬られています。
そのひとつひとつの墓碑には、ヘルメットが飾られ、「私たちは、あなたの英雄的行為を、未来永劫忘れません」と刻まれています。

この日本人の英雄的行為を賛美しすぎると、アンチの人にはいろいろといわれてしまいそうですが、やはり、この史実は、インドネシアが親日国家となるには十分過ぎるインパクトがあったと思います。
遠いインドネシアの地で、日本の敗戦を知った若き日本兵たちが何を思ったか。

このまま内地に帰っても、どうせそこに待っているものは、連合国軍による屈辱の占領政策ではないか。
敗戦国として、そのプライドをズタズタにされるくらいなら、この地に残って、インドネシアの独立にために協力して戦い、その命を全うしたい。
まだ兵士としての気概を捨て切れなでいた彼らが、使いきれなかったエネルギーをのやり場を、目の前にある戦いに投じたという気持ちは理解できる気がします。
彼らの行為は、利害で計れるものではありません。
それをすることで、彼らに何の見返りがあるわけではないし、敗戦が決定している以上、もうそれはお国のためにすらならないわけです。
しかし、そういう行為に命を張れるということこそが、人間として尊いということは、もはや理屈ではないわけです。

YouTubeを検索をしていて、このインドネシア独立戦争を題材に扱った「ムルデカ17805」という日本映画があるのを知りました。
ムルデカというのは、インドネシア語で「独立」のこと。
映画の評価はここではあえて避けることにしますが、独立戦争の空気感には触れることが出来ました。
日本とインドネシアの深い絆は、明らかにこの独立戦争によって結ばれたことは間違いないと言っていいでしょう。

さて、話を冒頭に戻します。

ムルトポ将軍の演説です。
将軍は、日本軍によって組織された郷土防衛義勇軍PETAの若き兵士でした。
日本軍の教育を受け、厳しい軍事訓練に耐えて、軍人になった人です。
そして、命を懸けて、インドネシア独立のために戦った人です。

その彼が、国際会議の場で、歴史的事実を捻じ曲げて、日本を貶めようとする韓国代表の詭弁を憤然と叱咤したのは当然のことと理解できます。
それは、「日本のために」というよりは、歴史を、自分たちにとって都合のいい物語にすり替え、それを列席の各国出席者に印象付けようと画策する韓国代表の魂胆が許せなかったということだったのでしょう。

はたして、何人の出席者がその韓国代表の演説にうなずいていたのかはわかりませんが、日本人としては、少なくとも、ムルトポ将軍に準ずる程度の歴史認識は持ったうえで、この韓国代表に対しては、毅然とこれくらいのことは言ってほしかった気がします。

「あなたの立場は理解できますよ。大変ですよね。でも貴国における愛国心て、そういうものなのですか?」

僕が、当時の相方とインドネシアのバリ島に旅行したのは、もう今から35年も前のことですが、今でもはっきりと覚えています。
島内を案内してくれたガイドにこんなことを聞いてみたんですね。

「島の女の子たちが、どこへ行っても、なんだか僕をジロジロと気にしてくれている気がするんだけど、この手の顔がこの国の女子たちのタイプなんだろうか?」

するとガイドは笑ってこういうんですね。

「それは、あなたがどう見ても日本人に見えるからですよ。」

どうやら、僕は今村均中将や、インドネシア独立のために戦った旧日本軍義勇兵に、おおいに感謝すべきだったようです。

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