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兄より劣る弟のコンプレックスの話

吾輩は猫を被ったニンゲンである。名前はぽん乃助という。

あなたは、コンプレックスがあるだろうか?

-友だちが自分より学歴が高くて、良い会社に入社した。

-会社の同期が自分より能力が高くて、評価されている。

-SNSの知り合いが自分より容姿が優れていて、チヤホヤされている。

そんなふうに、ニンゲンは身近に比較しやすい存在がいるとき、コンプレックスを抱くというバグを持ち合わせている。

あなたも、コンプレックスとは無縁でいたいという必死の抵抗は虚しく、ニンゲンの摂理に屈してしまい、一度はコンプレックスを感じたことがあるのではないだろうか。

ん…そんな偉そうに語っている私は、どうかって?

もちろん、あるに決まっているじゃないか。

初めてのコンプレックス経験は、自分にとても近い、「兄」という存在に対してだ。

今日は、「兄」という存在に対するコンプレックスについて、心を抉って(えぐって)語ることとしたい。

日本という国は世界各国の中でもジェンダーギャップが大きく、ジェンダー平等の意味で、世界で125位になったということがちょっと前に話題になった。

みんな口に出して言えないだけで、世間の実態として最も偏見が大きい属性は「男」と「女」であることは間違いないのだろう。

兄と弟という関係柄においても、おなじ「男」ということで、仕事・学歴・容姿・結婚・年収等々、世間的には同じ軸で見られる。

私は、兄との年齢差が5歳差と若干離れていて、兄の背中を追うように生きていた。

兄がやっていたスポーツと同じことをしたり、兄がやっていた遊びと同じことをしたり、兄がやっていた勉強と同じことをしたり、挙げていけばキリがない。

でも、どんなことを頑張っても、兄よりも良い結果を出せなかった。

ウサギには決して追いつけないカメ

兄の身長は180cmもあり、自分は日本の平均身長以下で容姿も勝てない。

兄は人間関係で悩むことが少なかったことに対し、自分は悩むことが多かった。

当然のこと、兄は私よりも自立が圧倒的に早く、星のように手の届かない存在になっていった。

そんな私にとって、唯一できる必死の抵抗が、先生や親に従順になることだった。

「あんたは何をやっても兄と比べてダメだね」という薔薇の棘のような言葉を、いつものように聞いていた。

でも、先生や親に従属になることで、「あなたは兄と違って素直だね」という向日葵が一面に咲いたような優しい言葉に変換してもらえた。

「素直」という言葉を聞くと、その人に良いイメージを思い浮かべることが多いだろう。

ただ、今は思う。その良いイメージは、社会によって刷り込まれたものだということを。

他人からみれば、「こいつは扱いやすい奴だ」と認識されているに過ぎない。

それを、「素直な人だ」と褒めることによって、より従順にさせているのだと思う。

その証拠に、社会で成功者と言われる人を見ると、「従順な人」ではなく、「周りを振り回している人」ではなかろうか。

私は、誰もができるような従うフリをして、「素直だね」と褒められることで、明日を生きる権利が与えられると思っていた。

でも、現実は違う。それで生きられるのは、客としていられる学生までなのだ。

社会に出れば、上司から言われたことをそのままやっても、「お前には考えがないのか!」「俺と言ってたこととは違う!」と、聞きたくもない有難い説教を受けることになる。

実際、私は社会人になりたてのとき、上司から毎日のように個室で詰められて、ひどい時には「君は発達障害かもしれない」と言われることもあった。

「自己肯定感」なんてものは消え去り、自我が崩壊しかけていた。

コンプレックスから逃げるために、「他人から嫌われないようなムーブ」をかましてたのに、「他人からも自分からも嫌いな自分」になっていた。

そのとき、気づいたのだ。コンプレックスから逃げるために、「素直」に依存していたことを。

そして、本当はコンプレックスというバグを放置するのではなく、立ち向かわなければいけないということも。

当時20代前半であった私は、今の仕事で結果を出せないのであれば、他で結果を出そうとブログを本気で始めることにした。

残念ながら、ブログで収入を得るところまでは手が届かなかった。

でも、本気で取り組むというのは、意に反したところで花が咲くこともある。

気づけば30歳になる頃には、会社という檻の中では、人を乗り気にさせる企画能力や、人に訴えるための言語化能力が比較的に高くなっていた。

きっと私がコンプレックスから逃げ続けていたら、会社という檻を飛び出して外の世界を見ることなく、散っていたのだろう。

ニンゲンである以上、コンプレックスからは逃げられない。

でも、周りの人を見ていると、コンプレックスへの向き合い方に差があると気づく。

-コンプレックスを隠そうと、自分のことを大きく見せようとする人

-コンプレックスを自虐して、人間関係を保とうとする人

-コンプレックスで嫉妬に満ち溢れ、他人の悪口を言って精神を保とうとする人

そうした人を見ると、過去の私の黒歴史を回想してしまい、心が苦しくなる。

決して、そうした人が「悪」なのではない。私は、過去の自分を否定して、今の自分を肯定するような常套手段をとりたくもない。

一つ言えるのは、ニンゲンの心は、コンプレックスという些細なバグですべてが崩壊するほど、脆いだけなのだ。

私のnoteは、「心を抉る(えぐる)エッセイ」というのがテーマだ。

ニンゲンが持つ心はガラス細工なのに、世間で言われている「自己肯定感」だけを携えて社会の荒波に挑むのは、あまりに心許ない。

まるで、ドラクエのラスボスに「ひのきのぼう」で挑むようなものだ。

『ドラゴンクエスト』より

「自己肯定感」とは別に、自分の心を抉った先の世界を見るということも必要なのだと思う。

その一つが、コンプレックスとの向き合い方だ。

未熟な私にとって、「兄」へのコンプレックスを早い時期から感じざるを得なかったことは、今では感謝でしかない。

コンプレックスに対して、「優劣」という解釈以外を持てるようになったのは、私にとっては救いでしかない。

私は、チヤホヤされる可愛いほかの野良猫たちを横目に、コンプレックスを噛み締めつつも、猫を被った私は自分の道を歩むこととしたい。


(P.S.)

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