家族に抉られた心の傷。過干渉という名の刃。
吾輩は猫を被るニンゲンである。名前はぽん乃助という。
気づけば最近、私の冷蔵庫には氷結無糖レモン缶酎ハイが詰まっていた。
自炊をしない私の冷蔵庫の中は、色のない無機質な世界だが、そこには多数の生命体が移り住んできたような景色だ。
そう、私は晩酌の日々が続いていた。それは、悩みがあるからだ。
悩みなんてものは、SNS上で顔知れぬ者たちに発信する暇があるなら、ちゃちゃっと現実世界の知り合いに相談した方が良いのは分かってる。
けれど、現実世界で相談しづらい悩みがある。それは、家族の話だ。
最近、「毒親」なんて言葉が、巷では流行っているようだ。
「毒親」という言葉はカジュアルで、私はあまり好きじゃない。自分が抱える呪いを、なんでもかんでも親のせいにできてしまう気がしてしまうから。
でも、「毒親」なんて言葉が流行っているくらいなのだから、親との関係性に悩んでいる人は少なくないのだろう。
日々、虐待のニュースが流れてきて、見るたびに苦しい気持ちになる。
以前、誰かから聞いたのは親から虐待されても、親を責める発言をしない子どもも少なくないということだ。だからこそ、虐待を防ぐことは難しいようである。
家族の話というのは他人にしにくいし、自分の家族は大丈夫だと信じたい。ニンゲン誰しもが、そんな感情を持ち合わせているのだと思う。
そんな私は30歳を超えて、家族から抉(えぐ)られてきた心の傷が、今になって痛みを感じてきた。
怪我した瞬間は痛くないのに、傷口を見ると痛く感じる。まさにそんな感じだ。
私の傷を抉(えぐ)ってきた凶器は、「過干渉」という名の刃だった。
ただ、凶器が分かったところで、この傷口の痛みとともに酒を飲んでるだけじゃ、事件解決につなげることはできない。
それでは、どうすればいいのか…?
不器用な私は、いつだって自分の心を抉(えぐ)ることで、事件解決の糸口を見つけてきたじゃないか。
血迷ったと思われるかも知れないけど、今日は、家族から抉(えぐ)られた心の傷を、私自身がさらに抉って昇華してみようと思う。
◇
思い返すと、私は常に他人と比較されて、生きてきたように思う。
常に、同僚を仮想敵としてみなし、その人より出来ないと、家族から永遠と突いてくるような生活だ。
-あの子と比べてお前と言ったら。
この言葉を、何回聞いただろうか。
そして、ライフイベントにまつわる時に、より顕著になる。
受験のときや就活のとき、自分の意思よりも、親の世間体が優先された。
-どれだけあんたを育てるのに金を使ってきたと思うの。
少しでも反抗しようものなら、この言葉が飛んできた。
私が望んでもいないレールを勝手に敷いて、そこから外れようなものなら罵倒の言葉が飛んでくる。
友達との付き合いや恋人との付き合いについても、小さい頃から探りを入れてきて、過剰な干渉をしてくる。
-あの人と付き合わない方がいいと思うよ。
この言葉、何回聞いただろうか。
-あなたが一人で生きられるはずもない。
この言葉も、何回聞いただろうか。
「心配している」という大義名分を掲げれば、親の過干渉は肯定化されてしまうのだ。
でも、親に感謝することが美徳とされている中で、親を疑うというのはとても難しい。
世間的には「親元を離れれば親の有り難みを感じる」と言われるけど、私は親元を離れ、有り難みは感じることはなかった。
もしかしたら、私の人格が破綻しているのかも知れない。というより、そういう側面があるのは事実なのだろう。
でも、私は少し前に、目が覚めるような出来事があった。
30歳になって、しきりに家族から、「結婚しなさい」というプレッシャーが強くなった。
私自身も父性が芽生えたこともあり、婚活を苦労して続けた。そして、やっと結婚したいと思える人もできた。
私は家族から詮索されるのが嫌で、恋人の話はあまり出さないようにしていたが、さすがに結婚となるとそうはいかない。
だから、家族のグループLINEで報告した。すると想像通り、親や兄から「その人大丈夫なの?」という詮索が始まる。
そして、次のメッセージを見たとき、私は愕然とした。
-結婚することで両親の家族や兄の家族全員に迷惑をかけるかもしれないから、慎重に考えなさい。
私の頭の中の切れそうな線が、プツッと切れた気がした。
「結婚しなさい」というあの言葉はなんだったのか。それよりも何よりも、自分がここまで信用されていないことが、ただただ悲しかった。
目からは自然と、涙が出ていた。
でも、ここで感情的に反論すると、家族全員から「冷静になれ」というメッセージがくることは自明だ。
心理テクニックでよく言われる「アサーション」とか「Iメッセージ」とか考えながら、LINEの返信を打っていた。
私はふと思った。なんで家族に対して、心理テクニックなんて使っているのか。無意識の中で私は、家族を他人だと認識していたのだ。内心で、恐れていたのだ。
私の家族は、普通ではないのか。いや、私自身が普通ではないのか。
そこで私は気づく。自分の心に大きな傷があったことに。そして、激痛が頭の中を巡った。
◇
決して自慢できることではないが、私は他人よりも、心が傷つく表現方法を知っている。それは、家族だけはなく、いろんな人がいろんな言葉で罵倒してきたからだ。
抽象的にいえば、いじめやハラスメントの類を経験した。それも、自分がそう思っているだけではなく、学校や会社で問題になるレベルのものだ。
-この人には、ここまで言っても大丈夫だろう。
私は、生まれつきそう思われやすいのだ。
-言い返さないお前が悪い。
その言葉は、もう聞き飽きたって。社会に迎合するための有難い言葉をもらったところで、私の心は動くことはないのだ。
でも、私はやっと決心することができた。そろそろ、家族に敷かれたレールから外れていいだろうと。
レールから外れることは怖くなくなっていた。あれだけレールを外れるのが怖かったのに、家族に信用されていないと分かった途端、どうでも良くなった。
私は今年になり、長く続いたブログの更新をやめてnoteでエッセイを書き始め、関東から関西に引っ越して、そして終いには人生初めての転職を決めた。
他の人にとっては、大したことのない選択かもしれないが、私にとっては大きな決断だった。
よく考えてみれば、これまで家族に反骨精神をぶつけず、何も考えずにレールを歩いていた私が悪いのかも知れない。
家族は「心配している」という大義名分を掲げて、過干渉を肯定化していた。
でも私だって、被害者ヅラすることで、変わらない自分を肯定化していたんだ。
今後、私は自分の人生を自分で決めていくことになるだろう。
そうすれば、人格が壊れた私も、本心でこう思える日が来るのかもしれない。
家族を愛してるって。
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