【短編小説】あなたのことが好きだった私を許してください。
「咲希のことが好きだ。今週会える?」
このLINEの一文が、私の色褪せた視界に色を取り戻してくれる。
私の心は、満たされた気持ちで脈打っていた。
でも、私の頭は、いつものように罪悪感に満たされていた。
夫にどのように嘘をつこうか…なんで私はいつもこんなことで悩んでいるんだろう…。
私は夫から2年前にプロポーズを受け、この結婚に後悔はなかった。
夫は容姿端麗で、気遣いもできる。学歴もとても良く、仕事も安定している。
他人から見たら、私は幸せ者に違いない。
そんなことはわかっているが、私はLINEを返す手が止まらない。
「うん、会いたい。秀一のことがすごく好き。今すぐ会いたいよ。」
◇
私はいま秀一の手を握り、花火が打ち上がるのを待っている。
人が好きだと思えるドキドキ。脳から溢れんばかりの多幸感を、私は抑えることができなかった。
30歳近くになった私も、この時ばかりは、高校生に戻った気分になる。
それと同時に、今日の朝、家を出るときのことを思い出す。
いつものように、私は夫に嘘をついた。
「ごめん、今日も仕事が積んでて、喫茶店で仕事してくる。」
私は個人事業主として働いていて、収入も夫と遜色ないくらい稼いでいるから、この言い訳で夫が反論できないことはわかっていた。
罪悪感…というよりは、最近は夫に許可を取るのが面倒に思えてきた。
そんな虚しい気持ちに浸っている私は、秀一の声で我に返った。
「咲希、本当に可愛い。愛してるよ。」
その瞬間、夜空に花火が広がり、轟音が響いた。私は、秀一に身を寄せた。
あぁ、幸せだ。本当に幸せ。
ぼーっと花火を見ていると、私は昔の記憶が蘇ってきた。
あれこの感じ、前にもあったような…。
そっか、夫とこの花火を見ていたんだ。
私は4年前、夫と花火に来ていた。
そのときも私は彼の手を握っていた。その時の胸の鼓動は、秀一と過ごす今この瞬間と変わらなかった。私はどうしようもなく、夫のことが好きだったのだ。
でも、その時の夫の顔は思い出せない。
そういえば、私はいつから夫の名前を呼ばなくなったんだろう。
◇
私はずっと、自己肯定感が低かった。
仲の良くない両親は、毎日のように喧嘩していた。
その怒りの矛先は私に向くことがあった。
「あんたがいなければ、私たちは今でも好きでいられたかもしれないのに。」
母から聞いたこの言葉は、今でも忘れられない。
勉強はあんまりできなかったし、運動はもってのほかで、日中の学校生活は楽しくなかった。
でも、大学生になってから私はしっかりと化粧を覚え、男性から告白される機会が増えた。
私は誰かから求められるこの瞬間が、低い自己肯定感を満たしてくれた。
何人かと付き合ったし、一夜だけを過ごした人もいた。
私は大学生のとき、ブログをやり始めたらファンがたくさんついて、そのお陰で今のライターの仕事にもありつけた。
仕事でも読者からエールを貰えるたびに、低い自己肯定感を満たしてくれた。
でも、結婚する前の夫との関係は格別だった。
彼と会っていないときも、彼の顔を思い出すだけで、ただでさえ馬鹿な私の頭は、さらに馬鹿になるくらい多幸感で満たしてくれた。
あんなにも好きだった夫の顔を、今は思い出せない。
夫と結婚して半年後、「私の恋愛はもう終わったんだ」という絶望に直面した。
【人妻】という看板を背負った途端、異性の声から優しさが失われていった。
結婚してからも相変わらず、夫は優しかったけど、好きという気持ちで心が満たされることは無くなった。
その時からだ。私が夫の名前を呼ばなくなったのは。
私はいま、秀一のことが好きだ。
ただ、秀一とこのまま関係を続けていたら、今の夫との関係はどうなるのだろう。
そして、私が秀一と結ばれても、今の夫と同じことになるんじゃないだろうか。
そんなやんわりとした葛藤とともに、最後の花火が打ち上がった。
夫と昔の関係に戻りたい。今からでも戻れないのかな。
秀一は、私を抱き寄せた。その瞬間、私は葛藤が一瞬で吹き飛ぶくらい、心の鼓動が高鳴った。
あぁ、これが夢であってほしい。きっとこれは夢だ。
私は、目が覚めた。あぁ、やっぱり夢だったんだ。
隣を見ると、カーテンから漏れる光に、人の顔が映った。
秀一だ。服はもちろん着ていない、私も。
全然夢なんかじゃない。夢のような現実だった。
今日も秀一と一夜をともに過ごしてしまった。
私は、この冷静になってしまう時間が一番憂鬱になる。
だって、これは世の中で言われる【純愛】ではなくて、【不倫】なのだから。
【不倫】という言葉が、私の低い自己肯定感と、中途半端に抱える責任感で心を抉ってくる。
もう秀一と会うのはやめよう。夫と、もう一回しっかりと向き合おう。
幾度もなく、この決意を胸に抱えることがあったが、今日はいつになく決意が固かった。
秀一は起きる気配もなく、私は彼の家をこっそり出て、自宅に向かった。
夫は、リビングで泣き崩れていた。私は、その理由を一瞬で悟ってしまった。
私は、夫に声をかけることができなかった。
夫は私の顔を見て、こう言った。
「ずっと信じてたけど…やっぱり【不倫】してたんだね。」
夫は、私が彼の家を出入りしている写真を持っていた。
どうやら、夫は探偵に不倫調査を依頼していて、私が秀一と花火を見ているとき、探偵の依頼結果の話を聞いていたようだった。
夫は、抑えることのできない震えた声で、でもはっきりとこう言った。
「離婚しよう。」
もう、とっくに手遅れだった。私が夫への愛が冷め切っていたことは、彼はわかっていたんだ。
私は彼のことをずっと見ていなかった間、彼はずっと私のことを見てくれていたんだ。
こんなダメ人間な私には、夫に「もう一回やり直そう」なんて言える権利も気力も無かった。
秀一さえ目の前に現れなければ、こんなことにならなかったかもしれないのに。
あぁ…こんなときに、自分の罪を他人になすりつける発想が出てくる私は、なんてクズなのだろう。私は、あんなにも嫌いだった母と同じだったんだ。
そんな夢想に浸っている私を、目の前の夫は現実を突きつける。
「最後に一つ教えてほしい。前の夫と別れたのも、同じ理由なんだよね?」
夫には、前の夫と別れた理由を嘘ついていたけど、それも見透かされていた。
私は、また同じ過ちを繰り返してしまったのだ。
「ごめんなさい。」
私はその言葉しか出てこなかった。
あなたのことが好きだった私を許してください。
許してくれないのはわかっているのに、走馬灯のように、夫との記憶が蘇る。
私が悪いのに、被害者のような気分が湧き上がってきて、涙が止まらない。
夫は、私にハンカチを出そうとした手を戻した。夫はもう、最後の優しさを示すことができないほど、ずっと私に不信感と僅かな希望を抱き続けてきたんだ。
夫は部屋から出ようと、ドアノブに手をかける。
私の手はもう、夫には届かない。もう、届くことはない。
ガチャンと、無情にもドアは閉まった。
私は病気だ。どうしようもなく恋愛依存症なんだ。
私には、もう誰かと一緒に過ごす権利なんてないんだ。
何度も何度も何度も、一人しかいないこの部屋で自責していた。
あれから、何時間経っただろう。私の涙は、もう枯れきっていた。
その瞬間、私のスマホが揺れた。LINEの通知だ。
「咲希、会いたいな。」
私の強張っていた口元が、自分でも一瞬で緩んだのがわかった。
「うん、私も会いたい。」
罪で穢れた手を、また私は止めることができなかった。
(追伸)
同じ不倫であっても、女性と男性では報道のされ方も違うし、ネットでの反応も違います。
でも、不倫というもの自体の本質は性別に関係ないものだと思い、今回は女性の不倫をテーマに執筆しました。
はじめて、私自身(男性)の経験外のことを執筆するため、女性に話を聞いてみたり、インターネット上の記事などをみたりしながら、綴っていました。
その中で、「低い自己肯定感が満たされる」や「終わったと思った恋愛がまた始まる」といったキーワードが挙がってきて、短編小説に出てきた咲希のキャラクター描写をしていました。
これは性別に関係ありませんが、倫理的にも法的にも不倫は御法度です。
でも、「不倫する人が絶対悪」だと断じてしまうと、不倫をしてしまう人の感情を理解することができず、「不倫がなぜ起きてしまうのか?」という疑問から遠ざけてしまうのではないかと思います。
ネット上では事件が起きると、加害者の人格を一方的に否定するコメントが多くみられますが、それによって事件が減るかというと、そうではありません。
誰しもが、「不倫する・されるの当事者になるかもしれない」という前提に立ったほうが、自己理解・他者理解につながるという願いを込めて、今回の短編小説を綴っていました。
さて、最後に宣伝となりますが、私はnoteでの執筆のほか、「眠れない夜に寝ねがら聴ける┆安眠ラジオ」をYouTubeで投稿しています。
気になる方は、ぜひ、聴いてみてください。
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