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サウナに出会えなければ私は死んでいただろう

吾輩は猫を被ったニンゲンである。名前はぽん乃助という。

-男たちはデトックスを目指し、整いを追い続ける。世はまさに、大サウナ時代!

気づけばみんなが口を揃えて、「サウナはいい!」と言うようになった。

銭湯のサウナ前には、無防備にもたった一枚のタオルをこしらえて待つ人も。

場に似つかわない、サウナハットというお洒落な逸物を被る人も。

その中に、「すずめの戸締まり」のダイジン(猫のキャラクター)の如く紛れている私である。

映画「すずめの戸締まり」のダイジン

そんな私は、約10年前にサウナと出会った。

社会人としてうまく適応できず、自分が精神的に苦しんでいたときだった。

きっと、サウナに出会っていなかったら、私は今頃死んでいただろう。

きょうは、長年連れ添ったパートナーのような格別の思いを馳せるサウナのお話をしたいと思う。

朝日がさすと、夏でもないのに、ダラダラと汗水が流れてくる。

眠れていたのかわからないくらい、朦朧としている。

そして、目が覚める頃には、家の外に出ることを拒否するかのように、腹痛と便意が襲ってくる。

私は、社会人になって半年した頃から、そういう毎日を送っていた。

胃腸科に行けば聞いたことがない薬が処方され、精神科に行っても聞いたこともない薬が処方された。

やっとの思いで会社に行っても、毎日のように叱咤激励だった。

精神的に麻痺してきた私は、どんどん痛覚が無に近づいていった。

そんな私に対して、痛みを感じさせようと、周りの攻撃は過激になる。

個室に詰められて、こんなことを言われたこともある。

「君は発達障害かもしれない」

「仕事ができない人としての生き方を覚えたほうがいい」

「あいつはポンコツだ」という私の噂が流れていることも、耳に入ってくる。

私はこのとき、世の中の残酷な真実を知る。

ニンゲンはうまくいっているときは色んな人がついてくるけど、追い込まれれば追い込まれるほど、人は離れていく…ということを。

そんなある日。仕事から帰るとき、お酒を飲んでいるわけでもないのに自分の行動を記憶できないほど、夢の中にいるような感覚のことがあった。

目の前の線路が輝いて見えた。ここに飛び込んだら幸せになれるのかもしれない。

そう思った瞬間、目の前に電車が通り過ぎ、我に帰った。

怖くなって、人がいない階段まで走り、座り込んだ。

つらい!悔しい!生きるのが嫌だ!死にたい!

色んな感情が頭と心の中に蠢き、言語化できないその思いは、涙に変わって止まらなかった。

幸いなことに、会社には異動という制度があった。

年度末だったその時から間もなく、4月からは人間関係が一気に変わることになった。

ただ、言葉で殴られ続けた私の傷は癒えていなかった。

まるでクタクタになったような、身動きの取れないボロボロのサンドバックになっていた。

そんな私は、ブログという執筆を通じた自己表現手段に出会った。(↓当時やっていたブログ)

私は、狂ったように執筆にハマり、今まで脳に枷をはめられたかのような思考停止状態から、脱獄できたような気持ちになった。

そして、執筆を始めるのと同時に始めたのが、サウナだった。

当時住んでいたところには、朝まで営業しているスパがあった。

遅くまで執筆できる場所として、スパに泊まることが多く、その時に初めてサウナ経験をした。(↓当時通っていた池袋のスパ)

サウナ民にとっては一般教養となっている、「サウナ→水風呂→外気浴」という黄金ルーティンを、ここで初めて知るわけである。

当時、「死にたい」という思考しか浮かばない状況だった私にとって、このルーティンを終えて外気を浴びた瞬間、狭まっていた視界が一気に開かれたような気がした。

これが世の中でいう「整う」という感覚なのだが、私にとっては、「生きていても良いんだ」という感覚であった。

私はこの瞬間、心の器を超えてしまった辛い気持ちを、やっと何かに受け入れてもらえたような気がしたのだった。

「サウナは、血流が巡って体にいい。」

「いや、サウナは血流が巡りすぎて体に悪い。」

そんな討論がSNSで繰り広げられていることもあるが、私にとってはそんなこと、どうだっていい。

今でもサウナに通っているのは、私にとって「整う」という感覚が、「生きている」という感覚に他ならないから。

サウナに通ってから約10年が経ち、私はこう思う。

きっと、サウナに出会っていなかったら、私は今頃死んでいただろう。

これが、私のサウナにまつわるお話である。


(P.S.)

5月から、「眠れない夜に寝ねがら聴ける┆安眠ラジオ」をYouTubeではじめました。

ぜひ、ご活用してやってください。

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