なぜTwitterと距離を置きたくなったのか、心を抉って(えぐって)考えてみる。
吾輩は猫を被ったニンゲンである。名前はぽん乃助という。
私は、かつてニンゲンの三大欲求と並ぶくらいTwitterにハマっていたわけだが、最近は上司の顔を見るくらい面倒に感じることがある。
巷では「ニンゲンにSNSは早すぎた」と、よく聞く。ただでさえ流行についていけない猫を被った私にとって、SNSはまさに「猫に小判」だったのだろう。
私は、どうしてTwitterにハマってしまったのだろうか。
前回は、心理学系の本に一時期ハマったものの、最近読まなくなった理由について、心を抉って(えぐって)考えてみた。
私のような、猫を被らないといけない不器用な者にとっては、心理学系の本と同等に、SNSに沼るのは王道ルートだと思う。
その答えは簡単だ。そこには、自分と同じような悩みを抱えている人がたくさんいて、自分の弱さを認めてくれる人がいるからだ。
度々、SNSでは、「エコーチェンバー」と「フィルターバブル」の問題が指摘される。
同じTwitterであっても、自分のスマホで流れてくる情報と、他人のスマホで流れてくる情報は違うのは、みんな当たり前にわかっているだろう。
でも、SNSの特徴として、「自分のスマホに流れてくる情報が絶対に真実」だと思い込んだり、「自分が考えていることは絶対に正しい」と思い込んだり、客観性を見失う弊害があるのではないかと、言われている。
最近、回転寿司屋で、お客の少年による醤油の容器を舌で舐めた行為がインターネット上の動画サイトにアップロードされ、それがSNSで拡散しており、物議を醸している。スシロー社が一日で、時価総額168億円喪失してしまうほどのインパクトがあり、この少年個人に対して、多くの一般人たちがSNS上で批判している。
このように、SNSでは、逸脱する行為をする者に対してサンクションが行われ、村社会のような文化が形作られている。
ここ最近、より一層、このサンクションの動きは過激化したように思う。
「正義中毒」というキーワードもよく聞くようになり、こうしたことが、一般的にも話題になる場面をちらほら見る。
ただ、私はいつまでも猫を被りたいので、「俯瞰的な視点」とか言って格好をつけたくないし、上から目線で話したくない。こうした講釈を伝えるのは、専門家の役割だ。
私にできるのは、自分の心を抉って(えぐって)考えるだけ。
昔、私が学生の時に、友だちの間でオンラインゲームが流行っていた。
私は、ゲームが好きな子どもだった。でも、オンラインゲームには、友だちから勧められても、決してハマることはなかった。
オンラインゲーム内では、「コミュニティ」がたくさん結成されており、何かに所属して、人間関係を深めていくという工程が必要であった。
私は「コミュニティ」に属すことが、リアルでもバーチャルでも、とにかく苦手だったのだ。交友関係が既に築かれている輪に入っていくのが、心の奥底で恐怖心を掻き立てるのだ。
今でも「コミュニティ」が苦手なままなのに、Twitterでは、猫を被っていろんな人と馴染もうとした。
その時の話題があれば、みんなでその話題に乗る。
悪者が現れれば、みんなで批判しにいく。
可哀想な人がいれば、みんなで擁護しにいく。
そして、リアルよりも世間体を気にして、「いい人」で生きないといけないTwitterの世界が、会社よりも会社のような、学校よりも学校のような、そんな抑圧された村社会に思えてしまうようになってしまった。
それでも、「コミュニティ」に属することができないと、みんなに置いてけぼりにされているような孤独な感覚に陥ってしまうから、Twitterを続けてしまう。こんな独りよがりな、矛盾な気持ちを抱えていたわけである。
決して、SNS自体が悪いわけじゃない。私の性根が、SNSに合っていないだけなのだ。
SNSでは、大空を羽ばたくような自由さを感じるニンゲンもたくさんいると思う。ただ、私は、SNSという箱の中で生死を待つシュレーディンガーの猫になってしまっていたのだ。
最近、気づきたくないけど、気づいてしまった真実がある。
私には、「人肌恋しい」といった人間の根源的な寂しさを、SNSで癒せないということだ。
だから、Twitterとは距離を置くことにした。
私は、箱の中で生死を待つのではなく、箱の外に出ることを選択するシュレーディンガーの猫になることを決意したのだ。
にゃーん。
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