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「成長依存症」に陥っていないか?

吾輩は猫を被ったニンゲンである。名前はぽん乃助という。

「成長」って良い響きだ。誰もがそれを否定しないだろう。

-もっと上を目指さなきゃ。もっと頑張らなくちゃ。

私は、成長することに日々必死だった。

noteやTwitterでも、「いいね数を伸ばす」「フォロワー数を伸ばす」といったようなコンテンツがよく見られている。

今日よりも明日の人生が良くなると信じて、「成長」に向けて頑張る。

アイドルが上に向かって一生懸命になる姿が輝いているように、自分だって輝きたい。

私だって、いつまでも「成長」を目指すことに疑いがなかった…あの日までは。

それは1年前、私は祖父と話していたときだった。

祖父は90歳を超えて、目にも止まらぬ早さで、日に日に老化が進んでいった。

祖父は、80歳になる前に富士山に登頂しており、自分にとってはスーパーおじいちゃんだった。

パソコンのスペックが低い時代から謎の機材を使いこなして動画編集をし、毎朝公園をウォーキングしてベンチで素敵な水彩画を描き、仕事で培った技術力で自宅の家電を簡単に直してしまう。

祖父が弱音や悪口を吐く姿など、見たこともなかった。

それが今、毎日のように弱音や悪口を、息を吸うように吐いている。

自分ひとりでトイレやお風呂に入れなくなり、日常生活もままらないことに苛立ちを感じている。

だけど、自分の過去の栄光が頭の中で蘇り続けるから、できないことを指摘されてしまうと、時には周囲のものを破壊するほど憤怒してしまう。

老化というものは、人間の性格さえも変えてしまうものなのだ。

そんな祖父が、泣きながらこんなことを話していた。

「昔は老人がノロノロ歩いていると、腹がった。でも、今は自分がこうなってしまった。本当は登山に行きたいし、絵も描きたいし、動画を作ってインターネットに投稿したいけど、何で体と頭が動かないのだろう…」

祖父は、涙の理由。それは、体と頭が「老化」しているのにもかかわらず、これからも「成長」できると信じていたからだろう。

言い換えれば、「成長」に依存してしまったため、自分の身の丈にあった幸せを追求できなくなってしまっていた。

祖父は、「成長依存症」に陥っていたのだ。

同時に、恐ろしいことに気づいた。

私だって、祖父と同じく、重度の「成長依存症」だったんだ、と。

YouTubeやラジオ等でタレントとしても活躍されている、精神科医の名越康文さんが、こんなことを話していた。

「怒り」に対抗するのは、「喜び」じゃないんです。(中略)喜びがあってもそれは、3倍速くらいで消えていくんです。それよりは「日常をこうやって歩いていることが爽やかである」とか、深呼吸すると「あー生きてる」って実感があるとか、「朝日を浴びたら気持ちがいい」とか、ニュートラルであることを自然に身体が喜ぶモードにならないと、「怒り」に対抗できないんですよ。「怒り」とか「憎しみ」とか「暗さ」に対抗できない。いいことがいっぱいありますように、それで対抗しますようにって、絶対負けるんです。

YouTubeチャンネル「ゲームさんぽ/よそ見」より

自分が「成長」を太陽のように憧憬していたのは、成長した先の「良い出来事」を求めていたからだろう。

「自分の言動をみんなから承認される」というその瞬間を、待ち焦がれていた。

でも、名越さんが話していたとおり、一瞬の良い出来事を味わったって、その喜びは一瞬で消えてしまう。

幸せになるためには、今の自分が背伸びせずにできることに対して、持続的に感謝できるようになることなのだろう。

ところで「知識」には、「結晶性知識」と「流動性知識」の二種類あると言われている。

知能の最も大きな分類は、ホーンとキャッテルが提唱した、結晶性知能(crystallized intelligence)と流動性知能(fluid intelligence)である。結晶性知能は、個人が長年にわたる経験、教育や学習などから獲得していく知能であり、言語能力、理解力、洞察力などを含む。一方、流動性知能は、新しい環境に適応するために、新しい情報を獲得し、それを処理し、操作していく知能であり、処理のスピード、直感力、法則を発見する能力などを含んでいる。
ホーンとキャッテルは、結晶性知能は20歳以降も上昇し、高齢になっても安定している一方、流動性知能は10歳代後半から20歳代前半にピークを迎えた後は低下の一途を辿るとし、知能には加齢に伴って低下しやすい能力だけではなく、維持されやすい能力があると考えた。

公益財団法人長寿科学振興財団「健康長寿ネット」
(アクセス日:2023年7月21日)

高齢になると、スマホの操作のような「流動性知識」を得ることは難しくなってくるが、これまでの長年の経験値から得られた「結晶性知識」は失われにくいと言われている。

自分もいつか高齢になる可能性があるのにもかかわらず、高齢者のことを「老害」と揶揄する人もいる。

それはきっと、「結晶性知識」よりも「流動性知識」を大事に生きている証左であり、それこそ「成長は正義だ」という考えに囚われているからであろう。

私は、「結晶性知識」も「流動性知識」も、両方楽しめるようになりたい。そうすれば、何気ない日常から得られる幸せだって、2倍になるんじゃないかと信じて。

「成長」は、喜ばしい概念であることは間違いない。でも、いつまでも「成長」ができないニンゲンにとっては、「成長依存症」が毒になることもある。

猫の皮を被った私は、四足のか弱い手足で背伸びする人生よりも、自分の低い目線で見える世界を楽しんでいこうと思った。

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