落語は自由なんだけど...それでいいの?

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220126/k10013450211000.html

いろいろ試行錯誤なさってるようでして…
大変だよね、ついぞ最近までは入り込めない世界だっただけに。
『ダメだ、ダメだ』って弟子入りを断られたなんて話は山ほどあるんだろうし。
女性が演じるってことに無理があるとか、野郎目線の噺だからとか理由が上げられるんだろうけど、本当にそうなんだろうかって疑問がある。
それは素人側だけじゃなくて、玄人側、つまり噺家側にもあって、試行錯誤してるんだと思うし、そういう状態は続いている。
そうでなきゃ一門に名を連ねてるはずがないし、真打にもなれはしない。
教える側が圧倒的に野郎が多かったから戸惑いはあるし、隠せないんだと思う。
その辺はかの人間国宝の桂米朝師匠をしても、似たようなことを言及していて、『女性には女性の演じ方があるはずで、それが何なのかがわからない』のだと。
あまり知られていないけど、あの名人・志ん生でさえ一時期は女性の弟子がいた(二つ目で廃業した)。
女性が演じることの云々は昔からあって、東京では三遊亭歌る多師匠や古今亭菊千代師匠が後に続く人たちに道をつけたものの、当初は別枠で女性真打にってなった時は当人も取り巻く周囲も戸惑いやら何やらの感情が入り乱れてたと思われる。
後に男女の枠が廃止されて香盤や階級では一件落着。
今は演じること、芸云々の話になってるんだと思われる。
演じる人が最近になって増えて来てること、それでもまだまだ少ないことなどからの試行錯誤は今後も続くし、続かなきゃ問題だ。
野郎と同じ着物を着て演じる、登場人物を全員女性に置き換える、全くの別物や創作を演じるなどなどアプローチは芸人それぞれ。
それを否定しようものなら、噺家そのものの死活問題になりかねない。

そんな中での、この記事。
『あぁ…そう来ちゃったんだ….』ってのが正直なところ。
かかあにスポットを当てるってのは『おぉ…』って思ったけど、問題は取り巻き。
落語には疎いメディアやジャーナリストたちが喜んで食いつきそうな話題に乗っかっちゃったか、引き摺り込んじゃったのかと。
味方にしちゃいけない人たちを味方にしちゃったのかなぁと。
野郎が圧倒的に多い伝統的な世界に飛び込んで、斬り込んで風穴を開ける、野郎どもをギャフンと言わせる、そんな世界で頑張ってますって話は彼らには格好のネタで芸人は餌食になる。
『囃されたら踊れ』とは言うものの、囃し立てる人はよく見極めなきゃねって思った。
だが、本当の所はどうなんだろうか。
弟子入りを何度も断られても、それでも落語をやりたいんです、師匠の弟子になりたいんですって入り込んでやってる人が多い中で、そんなことを思ってる噺家はいるのだろうか。
仮にいたとして、自分が師匠だとしたら破門する。
そんなめんどくさい弟子は要らないし。
某師匠じゃないけど、『なって下さいってこっちは頼んじゃいないし』ってことだから。
落語には現代の尺度で当てはめちゃったら『それを言っちゃぁおしまいよ』なことばかり。
例えば、『尻餅』なんて噺は、貧乏で稼ぎが悪いけど、何とか正月の餅が欲しい。
そこで、旦那が思いついたのが、かかあの着物をめくって尻を出させて引っぱたいて音を出し、外には餅をついてますって嘘つく噺だったりする。
これをレイプやDVだって言われちゃったら、もう何も出来ませんわ。
古典落語にはこの手の噺がてんこ盛りの世界。
悪い取り巻きに囲まれちゃったのかなぁという杞憂と後味の悪さが残る。
その後味も悪すぎて、こうしてダラダラと書いてて、書いてるうちにヒートアップしつつある。

で…芝浜。
この方の芝浜を見てもいないので、どうこういうのはさておいて…
三代目・桂三木助師が練りに練り上げて一つのスタンダード型を提示し、噺家にもファンにも広まっていった。
その裏では、違う型も伝わってる。
いわゆる『古今亭系の芝浜』なんてのは、初めて聴いた時はあまりにもサラッとやっちゃうものだから衝撃的だった。
その他にも噺家たちの解釈や演出によって枝葉は分かれていて、誰が本家本元なんだかわからないくらい。
それこそ圓朝直系を自負する人たちだって、一言一句同じとは限らない。
『ええ噺』は東西を問わずにええ訳で、上方の噺家たちだって設定を変えて演じている。
噺をする側と聴く側との『そういう世界観』や『暗黙の了解』ってのがあってのことなので、しっくりこなければ、良くも悪くも『この噺家さんがやってるのはそういうものなのね』でどこかに棚上げしておけばいい。

で…つる子さん。
そういうのはねぇ…あんまり人には見せちゃったら…ってのが正直なところ。
そうはいうものの、名を上げたい、真打へ向かって箔をつけたい、売れたいなどなど志や思惑はあるだろうし。
どんな落語をするのかYouTubeでちょいと拝見してみました。
素人が言うのもなんでしょうけど、自分が通る道なのかもしれないと見ていて思いました。
大変だもん。
どんな噺にせよセリフやら動きを憶えて、お客様たちの前でやるってのは。
この人以上に笑わせてごらんなさいなって言われたら勝てませんもん。
そこに緩急や強弱、間の取り方、動き方云々…で、我の出し方、引っ込め方を身に着けて個人の『芸風』となる。
ただ、それは早いうちに脱却しないといけないのかもしれませんけど。
くどい、濃い、あざといのは(苦笑)
二つ目を長くやってて、もうすぐ真打でしょって人でも難しいことを求めるのは酷なのかなとも。
ただ、『あたし、あたし』と出しゃばってやられると違和感はどうしても残ってはしまいますけど。
いつかは『自分の気配を消さないと』って思いますが、みんなそこへ行き着くまでに悪戦苦闘、七転八倒して、真打になっても続いて行くんだろうなと思うのでした。

ただ、古典落語をずっとやり続けるんであれば、踏まえておかなきゃならないことはあると思う。
『稽古をしない訳じゃない、ただ…思いは受け継いで欲しい』と某師匠が落語会で言っていたのを思い出した。
稽古をつける師匠、稽古をつけてもらう噺家が差し向かう。
稽古をつける側は教わるのに、稽古をつけてもらうところから苦労してたりして見てもらって直してもらって、許可もらって、お客様たちの前で披露してその過程で苦労したりして稽古をつけている。
教える人によってはメシまで御馳走しちゃったりして労って挙げちゃったりしてる。
上げ膳据え膳で教えてることは、その噺で銭を稼いだ企業秘密を教えてるに等しいのだ。
誰から教わったのかは知らんけど、恩を仇で返すようなことはしてほしくないな、教えたことを無にはして欲しくないと願う。








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