共感の言葉と表現の言葉
こんばんは 膵臓です。
僕は作詞するのが好きです。
小説を書くのが好きです。
言葉の意味をひとつひとつ味わって選び取っていく行為はとても愛おしい時間だなと感じます。
そんなことを繰り返しているうち、ふと思ったことがあります。
「共感」を目的とした言葉と
「表現」を目的とした言葉は違う。
ということです。
この一文には様々な意味や捉え方があるのですが、その中のひとつについて話したいと思います。
「言葉」と漠然に表しましたが、日本語は本当に沢山の言葉が存在します。
それはかなり具体的なものから本当に大雑把で曖昧な言葉まで…
例えば「やばい」、「エモい」そんな言葉が近頃はよく使われています。
これは主に「共感」を目的として使われている言葉だと感じます。
有名人を生で見て「やばい」と言ったり、
夕陽を見て「エモい」 と呟いたりする。
そうするとそれを聞いた人は「やばいね」、「エモいね」と共感して返します。
でも、実際のところ当人が発した「エモい」等の言葉がどんなものなのかは本人にしか分かりません。
夕陽を見て、昔付き合っていた人と一緒に見た夕陽をふと思い出して出た「エモい」なのか、友だちと遊んだ帰り道に見た夕陽で今この瞬間が「エモい」のか。
でも、本人がどんな風に思っていようと、その言葉を聞いた人がどんな風に感じていようと「エモい」という一言で表すと2人の間には共感が生まれます。
つまり、沢山の意味を内包し、漠然として曖昧な言葉であればあるほど、人は共感しやすいのです。
古文で出てくる「をかし」も同じような印象を受けます。
「やばい」「エモい」は極端な例ですが、世の中に存在する言葉は全て、その人にとって違う意味が含まれています。
このような共感の言葉が多く使われるのは世の中の背景がもしかしたら関係しているのかもしれません。
人との協調が求められる時代、コミニュケーションに辟易した人々、なんとなく過ごしている日々…そんな中でいちいち自分の心情や感情にぴったりと合う言葉を探して相手に伝えることよりも、「共感」することの安心を求めているのかもしれないですね。
きっとどっちがいいかなんてものは無いと思います。
ただ、相手に本当に分かってほしい事、伝えたいことができたときは、大切に言葉を選び取ってほしいですね。
そうやって言葉を吟味して選び取った時、それは「表現」を目的としたものに変わるんだと思います。
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