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自分の欠点によって自分を肯定する


 自分の欠点を認める。

 そうすることで、自分と同じ欠点をもった、けれど欠点を欠点と自覚していない他の人たちと自分は一線を画することができる。


 そんなことを考えていたときにふと思い出したのが、安部公房の『笑う月』だった。


 はじめて買った安部公房の本が『笑う月』だった。
 安部公房の作品を読んだのは高校の現代文の授業だ。「鞄」を読んで、安部公房という名前が心の片隅に残り続けていた。
 あるとき本屋へ行き、今まで買ったことのない作者の小説でも買おうかと思った。安部公房の名前がぱっと頭に浮かんだ。

 出版社にこだわらず作家名を五十音順に並べている本屋で、あ行の作家の本棚を探した。そこで見つけたのが『笑う月』だ。ほかにも『砂の女』や『箱男』が並んでいたけれど、文庫本の裏のあらすじを見て、「夢」という言葉に惹かれた。あと、短編集で読みやすそうだったから。


 『笑う月』を読んで、ぶわあーっとなって、そこから『砂の女』も『箱男』も購入して読んだ。


 こうして出会った『笑う月』なのだけれど、以下に私が折り目をつけていた表現を引用してみる。


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『笑う月』(新潮文庫)


p45

類似は逆に、怒りを掻きたてる原因にさえなった。


p51

勝ち目がない、とあきらめたとたん、敵意があっさり羨望に変ってしまう、あの弱者の心理


p73

いったい何を期待して、あの時シャッターを切ったのか、思い出すことさえもう不可能だ。写真を残すつもりで、実は結果の存在しない行為に酔っているのだと気付いたとき、人はカメラを捨て去ろうと決心する。むろんカメラと一緒に、シャッターを押す瞬間の、あの無償の期待も捨て去ってしまうわけだ。


p75

シャッターを押すことで、世界の部分を手に入れる手形にサインをしたつもりになれる、その瞬間の自己欺瞞がたのしいのだ。


p79

そこでカメラに自分の義務を代行してもらうことになるわけだ。シャッターを押すという行為は、ぼくの黙殺を非難する物や空間に対する、せめてもの弁明なのかもしれない。


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 それで一番はじめの話題に戻るのだけれど、私が「自分を否定することで自分を肯定する」とかなんとか考えていたときに思い出したのが、一番最後の引用箇所にあたる話だ。

 ゴミを写真におさめる作者の心理。人目のつかない場所にあるゴミの存在に気がつく人は、意識を向ける人は、どのくらいいるのだろう。
 ゴミを捨てる人、捨てられたゴミに気がつかず通りすぎる人、ゴミの存在をみとめたうえで通りすぎる人、捨てられたゴミを拾う人。
 ゴミの写真を撮ることで、すくなくとも自分はゴミに無関心な人やゴミに気がつかない人ではなくなる。


 写真におさめられる対象物(ここではゴミ)にたいして、なにもできない(あるいはしたくない)自分。具体的な解決策を挙げることも、進んでなにかをすることもできない。けれど気づいている。見ている。意識を向けている。それを写真という目にみえる形へと変えていく。この行為は弁明であり、自己満足だ。なにもしない、なにも気づかない「他人」とは一線を画した自分になれた。自分は「他人」のなかの一人ではない。


 ここでいう欠点は、ゴミにたいして具体的な行動をとらないことだ。
 そんな自分の欠点を認める。
 けれど、写真を撮ることで自分がゴミの存在に意識が向いていることを証明する。ゴミの写真を撮りながらも、本当に写真に写っているのは、ゴミの存在に気がついている自分なのだ。


 欠点を認めることで、自分は自分の欠点を自覚しているのだと、欠点すら認めることができる人間なのだと思うことができる。



 これについて、思い当たる節がいくつもある。
 私は性格が悪いなと思いつつも、その数秒あとには性格が悪いと自覚してる点でましだなとか考えている。などなど。



 さっき引用した文章たちも、思い当たる節があるからこそ私は折り目をつけていたのだろう。
 人間ってみんな案外おんなじことを考えているのかもなと思った。またそう思うことで、私は自分の欠点を多数派のものにして自分の欠点を薄めている。

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