片付け大掃除


“Grief is the price we pay for love.”

悲しみは愛の対価。

数年前に逝去されたエリザベス女王の言葉だ。

悲しいということは、それだけ愛しているということ。

まいにち何かを失うことを怯えているわたしは、それだけ何かを愛せているのか、正直わからないでいる。

愛しているというより、それは一種の依存のような気がしていて、愛しているのは何かではなくて、自分のような気がする。

わたしは自分のことが好きではないしというかむしろ嫌いだし本当に不細工だと思っているけれど、「自分にすら好いてもらえない顔も良くない自分」が惨めで可哀想でたまらなくて、抱きしめてあげたいと思っている。

不細工で何もできない自分に依存しているのは、一種の甘えだと思う。自分に自信を持っていれば、負荷をかけることだって厭わなかっただろう。簡単にもっとさまざまなものを手放して、わたしは強くなれたかもしれない。

過去への依存はひとを狂わせるし、己への依存は成長を止める。わかっているのに、今も前に進めない。とうの昔に気がついたことに気がつかないふりをしている。弱い。

ところでわたしは、毎朝のベッドメイキングを朝のルーティンにしている。何かを手放しているわけじゃないけれど、毎日リセットしていかないと、何かが積もっていく気がして怖い。外から帰ってきた時に、昨日の記憶とか温度がそのままわたしを襲いそうで落ち着かなくなる。密室なのでにげられない。丁寧に扱ってうまく付き合っていかないと、すぐに犠牲になる。



依存は同時にとても重い。自分の身体を引きずって歩くのは大変だ。それはそれで苦しい。

スリランカの仏教には、

愛し過ぎない 

という教えがある。元々は不邪婬の教えのようだが、いくつかの本や現地の人によってこのように意訳されていた。まるで過去の自分を潔く捨てることだと言われているようだ。愛し過ぎないことで、未来に希望をもてるようになるんだと思う。不確かなことを思うのはとても勇気と強さがいるから。強くなりたい。

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