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#027それで用は足りるのか?!書籍を写す文化とその効用ー書籍にまつわる文化、あれこれ

 今回は最近の調査であった出来事について。

 古文書の史料調査をしていますと、よく手習いなどの典籍が一緒に含まれていることがあります。表紙や裏表紙に、それを使用していた人物の名前が書かれてあったり、あるいは兄弟や近所の人がお古を使いまわしたのか、何人かの名前が書いては消してとなっていることもしばしば見受けられます。手習い以外では、能や謡の本や読み物なども出てきます。もちろん江戸時代の典籍ですので、木版刷りのものになります。中には書写したものも出てきます。当時、典籍はそれなりに高価な買い物だったことでしょうから、購入出来ない場合には、友人、知人などに借り受けて自ら写し取るということもよくあったようです。有名なエピソードでは、幕末の頃、青年期の勝海舟がオランダ語の辞書を借り受けて写し取り、2冊写すことで、1冊は自分用に、もう1冊は他へ売却して学問の資金にした、ということなどが挙げられます。われわれも史料調査をしている中で、よく筆写した読み物などもよく見かけます。それだけ典籍が高価だったので、借り受けて一生懸命に筆写することが広く行われていたといえるでしょう。

 典籍を筆写することで、その典籍を入手する効用としては、その読み物などを手に入れるということになるかと思います。南総里見八犬伝や忠臣蔵、太閤記などを筆写して自分のものにしている例を、これまで自分もいくつも見て来ました。しかし、筆写することそのものの意味を問われるものもあります。手習いの本などがそうです。手習いは文字を覚えることや美しい字を手に入れるためにする学びであることは言うまでもないでしょう。その手習いの本を写す場合、文字に誤りがないことはもちろん、書き方や文字のスタイルをきちんと写し取らないと、文字を学ぶための教科書にはなりえないと言えるでしょう。今のようにコピー機が発達している世の中では、コピーすることで、一応寸分違わぬものを複製出来るということになりますが、江戸時代であれば、よほどきちんと引き写していない限り、教科書たりえないと言えそうです。

 今回、調査で見つけた典籍はもう一歩先をいったもので、水墨画の教科書を自分で引き写したものが出てきました。元の本を知らないので、もはやこれを見ながら絵を練習しても、上手になるのかどうかも定かではないような気がしてきます。それでも直接典籍を購入するには高価であったためか、この自筆水墨画教科書の持ち主は、自分でこの教科書を写し取ることを決意して、頑張って写し取ったのでしょう。もしこの人物が、非常に上手にこの本を写し取れているのであれば、この本で使われている技術には習熟しているので、もはや教科書は必要ないのでは、と思えますし、上手に引き写せていないのであれば、これを見つつ描いた水墨画はさらなる粗悪なコピーの再生産、となる可能性もあります。

 自筆水墨画教科書の写真を撮っていなかったので、皆さんにお見せ出来ないのが残念ですが、読み物であれば何ら問題の無い、典籍の筆写という行為が、文字そのものに意味がある本や絵の場合には、その効用が格段に変わってしまう、ということに、今回初めて気が付いて驚いた次第です。政治史、経済史などの研究を目的とした調査をしている際には、こういう資料は完全にわき道になるので、なかなか世間の目に触れることがありませんので、ちょっとした小ネタということで、ここに記しておきます。

追記
今しがた写真を整理していたら、1枚だけ撮影していましたので、参考までに載せておきます。

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