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根源的な二つの謎(2)ー認識論の観点からー

◇根源的な二つの謎(2)ー認識論の観点からー◇

前回記事の続きです。
私は、私自身を含めたこの世界の謎は根源的に次の二つに集約されると考えています。
一つは、この世界(宇宙と言ってもいいです)とは何なのか、なぜあるのかです。
もう一つは、私とは何なのか、なぜあるのかです。

一つ目の世界に関する謎は、自然現象に着目し、それは何なのかという問いを追求していけば必然的に突き当たるものです。
これに対し、二つ目の私に関する謎は、着目されにくく、捉えるのも難しく、余り問題として挙がりにくいものです。
唯物論の方々は、私という意識は物質的な自然現象として説明できるはずであり、根本的な謎ではないと捉えていると思います。
この点に関し、私は、私という意識は物質的な自然現象の上に成り立っているものではなく、物質的な自然現象として説明するのはまず不可能だと考えています。
わかりやすく言えば、これはコンピュータ技術により人レベルの意識を作れるか否かの話でして、私は作れないと考えています。
意識とは、人の技術で作り出せるようなものではないと強く思うのです。

こんな議論をしていると、唯物論やその反対側の方々から、根本的な謎が二つあるというのは、絶対違う、到底受け入れ難いという声が聞こえてきそうです。
その気持ちは私にもよくわかります。
何か気持ち悪いのです。
明確な理由がある訳ではありませんが、私も根本的な謎や命題は一つであるべきのような気がするのです。

ここからは、認識論の話になっていきます。
私たちは通常、目の前の物(例えばリンゴ)を見たとき、そのリンゴがそこに絶対的な物としてあると考えます。
しかし、よくよく考えると、リンゴが物質としてそこに存在しているという根拠は何処にもないのです。
むしろ、リンゴという物質があるというのは私たちの錯覚で、あるのはリンゴに関する私たちの認識だけなのかも知れないのです。

さらに、リンゴを見たとき、私たちは通常、そのリンゴ(対象物)とそれを見ている自分自身(認識者)とは別のものであると考えます。
この対象物と認識者が別ものであるという感覚は、至極当たり前のものではあるのですが、実はこれは私たちの錯覚によるものである可能性があるのです。
どういうことかと言いますと、何かを認識するという現象について突き詰めて考えていくと、認識の対象物と認識の主体(認識者)とを独立した別のものとして捉えなれなくなるのです。

もう少し具体的に説明するために、あなたがリンゴを見た瞬間に着目します。
リンゴを見た瞬間、そこには目に入ったリンゴに関する映像とそれに対する認識のみが存在し(なお、この映像とそれに対する認識は同時かつ一体のものです)、あなた自身に関するそれ以外の反応や認識は無いはずです。
あなた自身に関する肉体のことや、リンゴを見たことによって生じる反応に関する認識が生じるのは、リンゴを見た瞬間ではなく、それ以降のステップのことです。
つまり、リンゴを見た瞬間において、そこにはリンゴに関する認識のみがあり、対象となるリンゴとそれを見ている主体であるあなたとの区別は成り立たないのです。

まずはリンゴを見た瞬間にフォーカスして、主客の区別が成り立たないことを説明しましたが、リンゴを見た瞬間以降に生じる展開についても、同じことなのです。
我々の認識という現象は、連続して起こっているように感じますが、それは錯覚で、よく観察すると連続したものではなく、映画フィルムのコマの展開のように微小時間ステップ毎に切れていて、それがパッ、パッ、パッと連鎖的に連なって生じています。
その認識の展開のどのコマにおいても、上で説明したリンゴを見た瞬間のように主客の区別が成り立たないのです。

このように、認識論の観点から私を含むこの世界を観たとき、世界があって、その中に私があるというのは錯覚で、あるのは主客の区別の無い映画フィルムのコマのような認識の連鎖だけがあるのかも知れないのです。
つまり、あるのは私という意識の連鎖だけなのかも知れないのです。

だとすれば、根本的な謎は二つではなく、私という意識に関する一つのみになります。
もちろん断言はできませんが、私はおそらくそういうことなのだろうと考えています。


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