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おばあちゃん
2019年12月14日 午前6時50分、祖母が亡くなった。
おばあちゃんの色々を、敢えてここに書いておくことにする。
おばあちゃんは母方の祖母で、わたしが生まれた時からひとつ屋根の下ずっといっしょに生活してきた。
昭和2年生まれのおばあちゃんは92歳で、大往生だと思う。
5つ子の末っ子として練馬のでかい農家に生まれ、戦争も経験した。
お姉さんを爆死で失ったり、お兄さんたちが徴兵されて過酷な戦場に送り込まれたり、辛い少女時代を送ってきたようだけど、悲しい話は滅多にすることは無かった。
恥ずかしがり屋な一方で好奇心旺盛な一面もあり、興味があるものや気になるものは大きな目で穴が空くほど見つめることがあった。
猫が好きで、子供の頃は給食の残りを取っておいて野良猫にあげたり、いっしょに布団で寝たりしたそうだ。
「あの猫、急にいなくなったけどどうしたかな」と言っていたけど、きっと今は同じところにいる。
晩年は3年前にうちに来た猫の「ぼん」をとても可愛がって、本当に楽しそうだった。
ぼんはおばあちゃんの人生に花を添えてくれたと思う。
わたしが学校や仕事に行く時は絶対に姿が見えなくなるまで見送ってくれた。昼間は、時計を見ながら「もうご飯食べたかな.......」と呟いたりしていたそうで、いつも心配してくれていたらしい。
わたしが生まれた時からパーマなので「おばあちゃんいつからパーマなの?」と聞いたけどはぐらかされた。なんでだよ。
おばあちゃんの髪の毛は、真っ白でほんとうにきれいだった。
わたしはここ数年、おばあちゃんに毎日「きれいだね、大好きで大切だよ」と伝えた。
2人で留守番をしたり、猫と遊んだり、たくさん話をした。
その度におばあちゃんは幸せそうに笑っていた。
なので、喪失感はあるけど後悔はそれほどない。
おばあちゃんは最後までボケなかった。むしろ自分の命日を確認して息を引き取ったくらいしっかりしていた。
というのも、亡くなる2週間前までおばあちゃんは元気だった。
息が苦しいと言って救急車で搬送される日の夜、いっしょに夜ご飯を食べた。
肺炎と分かり、抗生物質を投与してかなり回復した。
来週には退院だねと言っていた次の日、様態が悪化して風のようにいってしまった。
なんだかそこもおばあちゃんらしかった。
母から連絡があり、家族全員でおばあちゃんを囲んだ。
呼吸器をつけたおばあちゃんは、にこにこしながら話し続けた。
「わたし誰だかわかる?」と聞いたら、にっこり笑って名前を呼んでくれた。
これから死ぬ人とは思えなかった。
おばあちゃんは「ねむくなってきたよ」と言い、ウトウトして、それから眠りに入り、そのままだんだんと飽和酸素量と血圧が下がっていった。その後心拍数も下がって、そのままお別れとなった。
人が死ぬところを初めて見た。
残されたおばあちゃんの体を見て、「抜け殻なんだな」と思った。
おばあちゃんは、わたしたちが駆けつける前に、「おトキさん.......」と空中を見て呟いたらしい。
おトキさんは、わたしのひいおばあちゃんで、おばあちゃんのお姑さんにあたる人だ。
トキさんは、とても変わった人で、「鳩をおんぶ紐でおぶっていた」というクレイジーな目撃情報がある。
トキさんはお嫁に来たおばあちゃんのことを「お姉さん」と呼び、おこづかいをあげたりして、とてもとても可愛がった。
おばあちゃんとトキさんはいつも手を繋いでいたらしい。
おばあちゃんはトキさんが大好きで、よくわたしにも色々なエピソードを聞かせてくれた。だからわたしもおトキさんが大好きだ。
おばあちゃんを、トキさんが迎えに来たんだねと家族で話をしている。
トキさんなら、おばあちゃんを迎えに来ても嬉しい。
寂しがり屋なおばあちゃんを、いちばんポップに冥土まで連れて行ける人だ。
きっと手を繋いで、おばあちゃんを大好きな人たちがいる所へ連れて行ってくれていると思う。
おばあちゃんとの1番の思い出は何かなと考えるけど、特に思い浮かばない。
その代わり、おばあちゃんとの素敵な日常が思い浮かぶ。
生まれ変わってもおばあちゃんの孫として生まれたいな。
また会えることがあるなら、いっしょに塩むすびたべようね。
寂しいのはまだまだ続くけど、むしろ今度はいつでもいっしょかもしれないね。
おばあちゃんオーバーソウルします。
これからもどうぞよろしく。
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