M-1で令和ロマンがネタの最後に伝えたメッセージの意味【考察】
「どうでもいい正解を愛するよりも、面白そうなフェイクを愛せよ」
ケムリ「なんだお前」
くるま「お前だよ」
一見すると奇異に映るこの漫才のオチは、
多くの視聴者を戸惑わせたことだろう。
その理由は明白である。これは、M-1グランプリという巨大なメディアの舞台を利用し、大衆に向けて放たれたくるまのメッセージだったからだ。
もっと言うと、このメッセージを伝えるために逆算して作られたネタだろう。
ポスト真実の時代へ
インターネットが世界に普及し、誰でも簡単に情報にアクセスができるようになったweb1時代
SNSアプリが世界に普及し、誰でも簡単に情報を発信できるようになったweb2時代
web3が騒がれ出しているが、我々は現在、web2時代のど真ん中を生きている。
「正しい情報」にのみ価値があるとされていたweb1時代から、
「楽しい情報」を人々は好んで求めるようになった。
例えば近年のSNSに関する調査結果によれば、人は真実よりもデマのほうを好んでシェアする傾向(アメリカ大統領選の際のBuzzFeedの調査結果)にあり、SNS上のコミュニティの中で一人一人が好んだ世界を好んだように生きている。
一人一人はそれが現実だと思って生きてはいるものの、タイムラインやコミュニティが見せる「現実」は、事実とはやや異なる偏った現実だ。
SNSは社会やコミュニティによって生み出される、現実のもう一つのレイヤー、仮想現実として振る舞っている。しかも、そのスイッチを切ることは難しく、多くは無自覚的だ。
そういった仮想現実は、2016年の社会に実際に大きな影響をもたらした。 Brexit やトランプ旋風など、識者が世論から推測するだけでは容易に予想できない現象が垣間見られ、オックスフォード大学出版局は2016年の言葉として 「Post-Truth (ポスト真実)」を選んだ。このポスト真実という言葉は、客観的な事実や真実が政治的な選択において重要視されないという意味である。
このポスト真実、虚構と現実の混濁した時代では、人はSNSを通じて、貧者の「あってほしいそれっぽい現実」を生きている。
この「ポスト真実」について識者に語らせれば、見たいものだけをフィルターにかけ、真偽を問わず混ぜ合わせた世界における情報取得や政治への参加表明、そしてその姿勢全般について、「真実や正義が敗北し嘆かわしい、この世界はこうあるべきではない」と言わんばかりだ。それもまた真実と虚構の間に溶けてゆく意見と感情の一つにしかすぎない。今、この世界は「べき」では語れず「思う」としか言えない。
複数のコミュニティと価値観がある中で統一の感情とルールとゲームを作ることに意味があるのだろうか?
真実は正義なのだろうか?
そして虚構は悪なのだろうか?
今起こりつつある変化、真実ではなく意見の時代、それを一言で表すなら「人類の適応」と言えるだろう。
この変化をフラットに受けれれるかどうかが、ポスト真実後の踏み絵になっている。この踏み絵はこの世界のいたるところで起こってい亭、これを受け入れられない人々は発達したテクノロジーから感じる漫然とした異物感を「それによってコミュニケーションの問題が生じている」と括り付ける。
しかし私たちは、もはやこの変化に適応して生きていくしかないのだ。あるべきはずだった世界は存在せず、皆が見た正義も存在しない。真実と虚構のパワーバランスは等しくなった、いや、むしろ虚構の方が強いかもしれない。
「なんだお前」「お前だよ」
「どうでもいい正解を愛するよりも、面白そうなフェイクを愛せよ」
この言葉を放ったくるまに対し、ケムリは
「なんだお前」
と返す。そしてくるまが
「お前だよ」
と言い返し、漫才は終了。
これは、上記に述べたような「ポスト真実」の時代を見据えている人と、それに気づかず「何を言ってるんだ?」と感じている人達を対比している。
くるまから見たケムリは、”言っても伝わらない人”に感じるだろう。
そして最後に言うセリフは
「(気づいていないのは)お前だよ」
である。
この時、真剣な顔で伝えるくるまと、ヘラヘラしているケムリが対比して画面越しに映される。
ケムリ視点で見ている視聴者は「くるまは真剣な顔で何を言ってるんだw」
というオチになり、
くるま視点で見ている視聴者は、この記事で書いたようなメッセージ性を感じる。
funnyとinterestingの「面白い」を二重構造にしたオチである。
このネタが真の意味で評価されるのは、5年後であると確信している。
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