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【小説】何かを忘れた夏の日に

久しぶりに、友人と会った。
あれから、既にもう3ヶ月が経っているらしい。

事の発端は、帰りのいつもの道でとある友人を見かけたことだった。
遅い時間───とは言ってもまだ日が暮れる前だが───にはあまり出かけたくないと言っていた彼が、自転車を漕いでいる。それもそうか、彼は就職したんだった。
できれば会いたくない、なんて自分勝手なことを思っていた。そんな私が嫌で、警鐘を鳴らす脳内を無視して彼の方へ近づいた。
「久しぶり。私のこと、覚えてる?」
「──────」
彼が何かを言った。私の耳にはそれが確かに聞こえなかった。しかし反射的に、彼が言わんとするところを理解したようだった。
「今日、この後話しませんか」
彼は一瞬目を泳がせたが、ややあってこくりと頷いた。


そこで視界が暗転し、場面が切り替わる。

私は自宅のマンションの1階のフロアに立っていた。今から友人の家を訪ねるところだった。
「───、──────」
彼はキッチンに立っていた。私は彼に何かを言われて1度自宅に戻った。


再び暗転。

自宅のインターホンの音が鳴った。
カチャリと遠慮がちに扉を開けると、そこには彼と、知らない女性が立っていた。
「……この方は、」
誰。
そんな言葉は呑み込んだ。
綺麗な人だ、私とは大違いの。
「─────────」
例によって声は聞こえなかった。けれど次に私が発した言葉によって、いやでもその意味を理解させられた。
「彼女、いたんだ」
脳内が真っ白になった。
その後彼はつらつらと何か言葉を並べた。声は聞こえなかったが、その内容は理解出来るのだから気味が悪い。とかくその内容によると、女性は元カノで、先程別れ話をしてきた後に無理を言って来てもらったそうだ。
しかしそんなことはいつまでたっても頭に入ってこない。私の脳内はこの言葉で埋め尽くされていた。

あの時彼が断ったのも、
きっと───彼女がいたから。

彼に告白してから3ヶ月。私は2度目の失恋のような気持ちを味わう羽目になったのだった。


「ここで、2人で話したかったのにな」
マンションの屋上。
淀み切った気持ちとは対照的に、見上げれば満天の星空が溢れんばかりに目に入る。
正直、生きる理由は失くなってしまった。死ぬのは怖い。けれど、生きたいとも思えない。

そう思ったのか─────私の体は、すっと空中に放り出された。



時計の針は7時を指していた。星の輝く夜ではなく、朝日の差す光明の7時。
「……夢、か」
随分と後味の悪い夢だ。
これ程、夢で良かったと安堵したことはない。
どれだけ喉が乾いていたのか、サイドテーブルに置かれた空のグラスに水を注いで一気に飲み干した。
冷静になって思い返してみると、矛盾だらけだ。私と彼は同じマンションには住んでいないし、別れたのにわざわざ元カノを連れて来る意味もわからない。
ただ私の不安な思いを煽るだけの夢、そんな偽りの記憶。大丈夫、大丈夫だから。
生きるのは怖い。けれど死にたいとも思わない。だから今は生きていればいい。

一通り心が落ち着いて嘆息したところで、すっと背筋が冷えるような感覚がした。夢の中の彼は、顔がぼんやりとして、声も聞こえなかった。すっかり声も顔も忘れてしまっている。たかだか3ヶ月、会っていないだけで。

どこか心に残る後悔のようなものを振り払って、部屋の窓をがらりと開けた。
風が夏の香りを運んできたようだ。またひとつ、何かを忘れたような気がする。

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