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【創作大賞2024応募作・恋愛小説部門】 きっとここにしかない喫茶店で(16)

第十五話はこちらです。


エピローグ:フラットホワイトのお姉さん

第十六話

 沼田ミカは二十五歳。顔つきは地味目だが、肌ツヤはよく、自然に上った口角が彼女の人の良さを表している。服装や化粧もこれといった特徴がないようだが、よく見ると綺麗にまとまっており、細かい部分に個性が出ている。そのためか全体として統一感があり、なんとなく目を引く雰囲気があった。

 彼女は今日良永ミカとなる。その協力をしてもらうために最近は足が遠のいてしまった道を踏みしめながら、ゆっくりと進んでいる。

 最初にこの道を歩いていたとき、ミカは周囲を確認する余裕がなかった。だが今はよく周りが見えているし、さっき通り過ぎたパン屋がとても美味しいバケットを売っていることも知っている。知らないうちに変わってしまった店もある。おしゃれなイタリアンを出していた店は、今ではタイ料理店に変わっていて、記憶との違いを際立たせる。

 そんな商店街を抜けて奥へ奥へと進むと、遠くの方に木造の建物が見えて来た。そこが今日の目的地だ。

 今日は店の定休日なのでミカはお店の裏口に回ってドアを叩いた。

「ごめんくださーい」

 大きな声を出すと扉が開いて、人懐っこい笑顔を浮かべた女性が中から出て来た。彼女がこのお店のマスターだ。

「ミカちゃん! 本当に久しぶりだね、そしておめでとう!」

 マスターは記憶の通りに目をころころさせながら笑っている。相変わらず元気そうだ。というか、むしろ前よりも元気になっているかもしれなかった。

 ミカは挨拶をした後で、今日のお礼の高級和菓子を渡した。マスターはなんでも作れるので何を持っていくのが良いか迷ったが、この店は洋菓子を出すことのほうが多いので、ミカは和菓子を贈ることにしたのだ。

「とりあえずはやることやっちゃおうか。そのあとは時間あるかな? 良かったらお茶でも飲んでいってよ!」

 マスターに迎えられてミカは店の中に入って行った。


 ミカはお店の中にある相談室で、マスターと向かい合って座っていた。マスターはミカが用意した婚姻届の証人欄に名前を書いている。

 相談室の主は今日はおらず、部屋はどことなく物寂しく見える。机やソファ、古いタンスはどれも変わっていなくて、匂いも記憶のままだ。スパイシーなんだけれど故郷に帰って来たような安心感のある香りがする。

 ミカはこの部屋で恥ずかしい思いをしたし、泣いたし、怒りもした。たった二回しか入ったことがなかったのに記憶は鮮明で、忘れることができない。

 ボーッと待っているとマスターが記入を終えた。ミカは内容を見て問題ないことを確認した。この後でタクミと役所に向かうがまだ時間には余裕がある。

「何か飲みたいものってある?」

 そう言ってマスターはメニューをミカに渡した。この部屋のメニューは特別で、普段は出していない飲み物がいくつかある。ミカは懐かしさに浸って薬草茶を頼もうと思ったが、全く同じだと進歩がない気がしたので、ちょっと変わり種にすることにした。

「それじゃあ、薬草茶のスパイシーをお願いします」

 ミカが注文するとマスターは「あ」と言った。何かあったのかとミカが疑問を浮かべていると、彼女は何故か苦笑いしながら声を出した。

「凪が『もしミカさんが薬草茶を頼むのならこのスパイシー特別ブレンドをおすすめして』って言ってたんだけどそれにする?」

「怖っ」

 ミカは思わずそう言ってしまった。相談屋なのか占い屋なのかよく分からないが、あの男にはそういうところがある。だけど、不思議と嫌な気持ちではなかった。

「怖いけどそれにします。せっかくなので」

 マスターと同じようにミカも苦笑しながら飲み物を決めた。


 場所を移動して、二人はカフェのキッチンにやって来た。マスターはすぐに茶葉を計りとり、湯を沸かしている。

「そういえば改めて思ったのですが、マスターのお名前って沙絵さんですよね? 私、最初の頃はアイさんなんだと思ってました」

「あー、そうだよね。よくそう言われるんだよねー。なんでai's cafeなのかって」

 ミカも同じ疑問だ。知る限りこの店の関係者にアイという人はいないし、店はマスターが始めたので先代がいるという訳でもない。マスターはミカに出すカップを選びながら話始めた。

「私ってね、緑川沙絵って名前だけど、生まれる前日までは愛って名前になるはずだったの」

 マスターはミカに背を向けていて、どんな表情をしているのか分からない。

「私の一週間前に産まれたいとこが愛子ちゃんって名前になったみたいでさ、近い親族に同じような名前がいると紛らわしいからってことで沙絵に変わったんだって」

「そんなことがあるんですか」

「面白いよね。全く同じ訳でもないし、いとこなだけなんだけど、変えるものみたい。今もそうなのか昔だからだったのかはよく分からないんだけどね」

 カップとソーサーを選び終えたマスターはミカの前に座って笑顔を見せた。

「昔、つらいときに思ったの。もし私が愛だったらこんなにつらい気持ちにならずに済んだのかなぁってさ。実際にはほとんど変わらない人生だったと思うんだけど、なんだか生まれ変わった気持ちで、新しい人生を始めてみたくなったことがあったんだ」

 火にかけたポットからは湯気が出ていて、コポコポとした音が静かに鳴っている。

「だからai's cafeって名前にしたの。ここは、緑川沙絵だったことが苦しかった私が人生を変えてみようと思って作ったお店だから」

 マスターはお茶目に笑いながらポットを火からおろし、茶葉にお湯を注ぐ。水はすぐに色付き、さっぱりとしたスパイスの香りがミカの元に届く。

「今では自分が何かとか生まれ変わりたいとか考えることはないんだけど、たまにその頃のことを思い出すんだよね。初心に帰るっていうかねー。ミカちゃんもそういうことあるでしょ?」

 ミカは頷いた。まさに今そんな気分だったのだ。

「だからアイさんがいないのにai's cafeだったんですね」

「うん。でもこうやってミカちゃんには話したけれど、ライトに伝えたい時は『ラブのカフェです』って答えることにしてるんだけどね」

 マスターはちょっと顔を斜めに傾けて、お決まりの目でミカを見た。マンガみたいというか、コミカルな人だとミカは改めて思った。

 マスターはカップにお茶を注いでミカに出してくれた。カップはスタイリッシュな形をしていて、色は真っ白だ。

「今ケーキを持ってくるね」

 ミカは薬草茶の香りを楽しんでから一口飲んでみた。味は全体的にさっぱりしていて、とても飲みやすい。スパイスやハーブが使われているようだが、味は和っぽさがある。心も体も清められるような不思議な味だ。

「お客様、お待たせいたしました。バッティンバーグケーキでございます」

 慇懃ぶったマスターが持ってきたお皿の上には、カラフルでかわいいケーキが乗っていた。ケーキは薄めに切られていて、形は真四角だ。内部にはピンクと黄色のスポンジが並んでいる。ちょうど「田」の模様をしていて、外側の囲いは白く、中の十字の部分は薄茶色だ。

「すごい! かわいい⋯⋯」

「改めてになるけれど、ミカちゃん、結婚おめでとう! ぜひ召し上がれ!」

 ミカはすぐにフォークを手に持ち、ケーキを口に運んだ。すぐにアーモンドの香ばしさが広がり、追っていちごの甘みがやってきた。

「おいしい⋯⋯」

 ミカはたまらずもう一口食べた。十字の部分は果物のジャムのようで、濃厚で甘酸っぱい。

「私も食べよっと」

 マスターもフォークを手に取り、これまた幸せそうに食べ出した。

 そんなマスターのことを見ながら、ミカは薬草茶を飲む。しっとりして香ばしさのあるケーキの味がお茶によって引き立てられる。同時に、口の中がすっきりするため、またケーキを食べたくなってしまう。

 ミカは間髪入れずにケーキを口に入れた。すると、お茶の影響なのかミカはこのケーキがただの洋風のケーキではないことに気がついた。

「ちょっと和菓子っぽいような⋯⋯」

 口に出すとマスターはにっこり笑って「分かっちゃった?」と言った。マスターの話によると、十字部分のジャムにあんこを入れたりとアレンジを加えて、食べ馴染みがあるようにしているのだという。

「ミカちゃんといえば薬草茶のイメージがあったから、それにも合うように少しだけ工夫してみたんだ」

 ミカはそれを聞いて、胸が一気に温かくなるのを感じた。そしてその温かさがどんどん胸から上にのぼってきて、ついには目から溢れてしまった。

 それからミカは、ケーキとお茶のおかわりをもらい、マスターとたくさん話をした。長時間ではなかったが、とても濃い時間を過ごすことができた。そして涙ぐむマスターに別れを告げて、駅へと足を踏み出した。

 その日は雲ひとつない秋晴れの日だった。
 まだ紅葉の季節には早いけれど、ミカの目の前には一本だけ葉を真っ赤に染めた木があった。
 ミカはその姿に昔の自分を見た気がしてかすかに笑った。

 しばし立ち止まった後、意外と時間がギリギリだったのを思い出して、そこから足早に立ち去った。


◆◆◆


 吉田アサミは二十二歳。茶色に染めた髪をとかしながら今日も仕事に精を出す。社会人に慣れてきたけれど、最近うまくいかないことも増えてきた。仕事では求められることが多くなったし、二年前から付き合っている恋人とは喧嘩ばかりだ。おかげでせっかくの休日も心が休まることはなく、疲れが溜まっている。

 どうにかしたいと思うのだけれど、どうしたらいいのかも分からずに、ただ目の前のことをこなすだけで精一杯だ。頑張っていることに間違いはないのだけれど、物足りないのはなぜだろう。

 そんなアサミの様子に気づいたのか、心配そうな顔で声をかけてくれる人がいた。彼女は三ヶ月前に転職してきた人で、アサミが密かに憧れている三つ年上のお姉さんだ。

 彼女は結婚を機に仕事を変えたようだけれど、もう職場に馴染んでいる。いつも前向きで、色々な仕事を頼まれているはずなのにささっと全てを片付けて、みんなに一目置かれている。

 声をかけられたアサミが「実は⋯⋯」と相談すると彼女はしっかり聞いたあとでこう言った。

「今日の仕事の後は空いている? 一緒にカフェに行こうよ」

 こんな人が連れて行ってくれるのはきっとオシャレな場所だと決め込んで、アサミはすごい勢いで頷いた。


 あっという間の帰宅時間、へとへとになったアサミはお姉さんに連れられて、喫茶店にやってきた。思っていたよりは落ち着いた雰囲気の店だと思いながらも、言われるがままに座ったアサミは周りをきょろきょろしながら聞いてみた。

「おすすめはなんですか?」

「メニューを見て、自分の体が欲していそうなものを頼んでみるのが良いと思うよ。もし思ったのと違ったら一緒に飲んで笑おうね」

 アサミは初めて聞く考えに目を丸くした。でもお姉さんが明るく笑う顔を見ているうちに、そうするのがあっているような気がしてきた。

「ミカさんは何にするんですか?」
「うーん。私は⋯⋯フラットホワイト!」

 アサミはついミカと同じものを頼んでしまった。

「マスター、フラットホワイトを二つお願いします!」

「かしこまりました!」

 失恋に悩んで薬草茶を飲んでいたミカは、今ではフラットホワイトのお姉さんになっていた。



これにて完結です。
お読みいただきありがとうございました!

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