【長編小説】 きっとここにしかない喫茶店で(3)
第二話はこちらです。
第三話
部屋を出てから数秒間、ミカは立ち尽くしていた。全てがジェットコースターのようで、大切なものが頭から抜けてしまったような、逆に大切なものを胸に取り戻したような、そんな新しい感覚に呆然としてしまっていた。
「あのぉ、大丈夫ですかぁ?」
ミカの様子に気がついたのかマスターが声をかけてきてくれた。なぜか話し方が芝居がかっている。
「おつかれさまでした。その顔を見るに得るものがあったようですね」
「えっ、私の顔何か変わってますか?」
ミカは自分の顔を触りながら答えた。
「はい。ずっと張り詰めた顔が多かったですが、今は緩んでいて、微笑んでいるようにも見えましたよ」
そう言うマスターの表情は柔らかい。
「そうだったんですね。いまは頭がいっぱいなだけだったのですが⋯⋯。でも確かに何かが軽くなった気がします。ちょっと詐欺にあったような気分ですが、腕がいいというのは本当なのかもしれないですね」
「詐欺みたいって言う人が多いんですよねー。気持ちはわかりますが⋯⋯まぁ、ちょっと変な人ですよね」
マスターはどこか自慢気な顔で続ける。
「もしよければ今日はランチを食べていってください。自信作が並んでいるんですよ! でもその前にまずは席に案内しますので、一息ついていってください。落ち着いてみて、食べてみたくなったら教えてくださいね」
ミカはマスターの気遣いに感謝して頭を下げた。
しばらくすると混乱が収まって来たように思ったので、ミカはランチメニューを見ることにした。
メニューはこの通りだ。
・スパイシーキーマカレーセット(サラダ、スイーツ付き)
マスターの力作カレー。今週はラムひき肉を使った本格派!
・五穀米と鶏肉の豆乳シチューセット(サラダ、スイーツ付き)
食べると体がポカポカに。五穀米がいい味出してます。
・アジフライ定食(小鉢、味噌汁付き)
いいアジ入りました! とっぷりソースかさっぱりおろしのだし醤油で!
「あれ?」
三番目にはカフェらしくない定食メニューがある。ミカが思わずマスターの方を見みると、なぜか目がバッチリと合った。おそらく何にも理解していないだろうに全力のサムズアップをしている。勢いがすごい。でもどこか憎めない。そんなやりとりにいつのまにかミカも笑顔になっていた。
少し前だったらミカは『こんな時にアジフライなんて食べられない』と思ってやめていたはずだ。だけど、今はどうしてもアジフライが食べたい気がするし、体が欲しているように思ったので、ミカは覚悟を決めた。
「すいません! アジフライ定食ください!」
特に必要もないのに力を入れて、しっかりはっきり言った。
「わかりました! アジフライ定食一つ!」
マスターもつられて、力が入ってる。どこか楽しそうだった。
「お待たせしました。アジフライ定食でございます」
それから十分ほど経って食事が運ばれてきた。お盆の上にはたくさんの物がのっていて、とても豪勢に見える。
大皿には大振りのアジフライが二つのっている。その隣には中皿が二つあって、片方には大根おろしと薄口醤油、もう片方にはソースが入っているようだ。三つある小鉢には、切り干し大根、人参と小松菜とひじきの煮物の小鉢、白菜とゆずのお漬物が入っており、根菜のお味噌汁もついている。思っていた以上に本格的な定食だ。さすがマスター。
中でもミカの目を引いたのは大根おろしだ。マスターの話では、これをアジフライに乗せ、醤油をつけて食べるのがおすすめらしいが、ミカはアジフライにはソースしかかけたことがなかった。
しかもどうやらこのアジフライは注文を受けるたびに揚げているらしく、手間がかかる上にその間マスターが珈琲を作れなくなる諸刃の剣メニューらしい。アジにも限りがあるため、一日十食限定という話だったが、なぜそんなメニューを加えたのだろうか⋯⋯。
ミカはまず白菜とゆずのお漬物を取って口に運んだ。季節の甘みを集めた白菜がしゃくしゃくと瑞々しい。鼻から抜けるゆずの香りが口をさっぱりさせ、湧いてきた食欲をさらに刺激する。
次は我慢できずアジに手を出した。ミカはサクサクのアジフライの上に大根おろしを乗せ、軽く醤油につけた。そして口に運んでゆき、ゆっくりと噛み締めた。
さくっ。十分に花が咲いた衣は真冬に踏みしめる極上の霜のようだ。顎に力を入れていくと、アジの脂と大根おろしの汁が同時に口の中で広がってゆく。アジの勇ましい甘みと大根おろしの辛味の混じった優しい甘み、二つが交わって新しい地平を切り開いていく。
「おいしい! 人生で一番美味しいアジフライかもしれない⋯⋯」
ミカは夢中で食べ進めた。口にする前、大根と醤油でアジフライを一つ、ソースでもう一つと思っていたはずなのに、いつの間にか両方ともおろし醤油で平らげてしまった。そして気がつけば煮物も、味噌汁も、ご飯も、全ての器が空になっていた。
ミカは『ご飯をこんなに美味しいと思ったのはいつぶりだろう』と考えていた。最後にこんな幸せな気分になったのがいつだか思い出せないほどだ。言いようのない満足感を胸に抱き、ミカは背もたれに寄りかかった。
「こういう感情こそが幸せなんだったら、彼といるときはあんまり幸せを感じてなかったのかもしれないなぁ」
ミカは静かに呟いた。
これまでミカは幸せというものを頭の中で勝手に決めつけて、それに沿うように人生を動かしてきた。だれど、人生は動かすようなものじゃなくて、勝手に動いてしまうものなのかもしれないと考え始めていた。
だってミカは、気がついたらこのカフェに行き着いてしまっていたのだから。
「ごちそうさまでした!」
店を出たミカは、三ヶ月前人生に悲嘆し、何も喉を通らなくなったときのミカとは違っていた。
これからは自分の感覚を大事にしていけるという自信がつきはじめていたし、気持ちを周囲にもっと開いてみようと考えられるようになった。もしかしたらすぐにはうまくいかないかもしれないけれど、ミカにはお守りがある。
ミカはあの男からもらったポプリを手に取ってその感触を確かめた。これがあればやっていける。そう思って、家に向かってミカは歩き出した。
それから、ミカの順調な毎日が始まった。いつのまにかご飯を美味しく食べられるようになり、仕事仲間ともどんどんうまくやれるようになっていった。
そして一ヶ月が経った頃、不思議なことにあの嫌味な上司が異動で支社に行くことになった。もしかしたら彼とミカはもう会うことはないのかもしれない。
ミカが自分を取り戻すにつれて、部屋に置いたポプリの香りはどんどん薄れていった。苦しんでいた自分とあの男が離れて行くようで寂しさを抱いたが、「これでよかったんだ」って呟いて、ミカはゆっくりと毎日を送っていった。
「この香りがなくなる頃には春になっているのかな。その頃には、素敵な人があらわれるのかな」
ミカの目に写っていたのは希望だった。
◆
「そっか。あれからも毎週来ているんだね。相変わらず薬草茶?」
「そうだよ。薬草茶(さっぱり)が好きみたい。遊びながら作ったものなのに、それを好きになってくれる人がいるなんて本当に不思議だよね。というかありがたいよね」
「本当にそうだね。でもさ、そうやって自由に作ったものにこそ、その人らしさが宿っているのかもしれないよ。どっちが作り始めたのかもう覚えてないけど、俺らっぽいお茶になっていたんだったら、それはそれで面白いよ」
「そだね。あんまり美味しそうに飲んでくれるもんだから、最近は私もハマっちゃってさ、夜に飲んでるよ」
「あー、だから最近減りが早いのか、犯人見つけた! まぁ俺も夜、家で飲んでるんだけどねぇ。⋯⋯だったら、オオバコとヨモギを薬草園に注文しておかないと」
「えへへ」
「でもなんかさ、あの子も不思議だよね。ちょっとだけサービスしちゃったよ」
「あら、そっちも? 私もなんだよねぇ。別にいいんだけどね」
「別にいいんだけどね。でもちょっと悔しいというかなんというか」
「そうなんだよね。それもまた不思議なんだけど」
「だね」
「あ、そうだ。今度何かあったら少し手伝ってもらおうよ。そっちでも、こっちでもいいからさ」
「いいけど⋯⋯なんか悪い顔してるよ」
「そう? なんか私と波長が合う気がするんだよねぇ」
「ろくなことじゃないなぁ。ってかもう俺もあの子も巻き込む気満々だよね」
「えへへ」
「まぁいいけどさ⋯⋯」
そんなこんなでミカがこの店の、いやマスターの騒動に巻き込まれててんやわんやするのは、少し先のお話だ。
ここは「ai's cafe」。名物マスターとたまにくる相談屋の男、そしてちょっと風変わりなお客たちが織りなす、ここにしかない喫茶店。
次話はこちらです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?