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鼻で笑われるかもしれないけれど

 娘が小学校に入学し、それだけじゃないけれど、いよいよ僕をとりまく環境も、数年前ニューヨークに留学した時よりもはるかに、ある意味ではかなり強引に、変化しつつある。35年生きてきて振り返ってもこんなにハードな山を、酸欠になりながらもポジティブに越えられたという実感はこれまでになく、いまはゆっくりこの山を下山しながら、苦しかったことや楽しかったことを振り返りながら遠くに見える街を目指している。
 僕は僕自身の、感覚の自認とでもいうか、感性の自認に、それが鮮明にわかるまでにずいぶん、時間をかけてきてしまった。自分の心に正直に生きる、ということについてずいぶん懊悩したし、作品はつねにその鏡になってくれ、時に僕を激励し、時に痛みつけさえもした。太宰治の富嶽百景じゃないけれど、この苦悩だけは、誰にも負けない。たぶん太宰にも負けていない。負けていないけれども僕はまだまだ彼ほどの文学的ないし芸術的成果を残せたわけではない(それが時間を伴うことは承知している)。そういう意味ではまだ負けている。けれど、太宰に勝ちたい太宰が目標というわけでもない。僕は彼のように死なない。死にたくない。やりたいことも、知りたい感情も、まだまだたくさんある。なにひとつ諦めていない。「自分の才能の有無」とかそんな軽口をたたける段階はもうとっくに過ぎている。そんなことはどうでもよく、自分が自分を好きになるために創作している。なに、ひとつ、諦めていない。
 僕はこれまで見通せなかった自分の幸福のビジョンを、なんとなく、いま、描けるようになってきている。その幸福のビジョンのなかにもちろんこの幼い新入生もいるわけだけれど、端的な言葉で自分の心の中にブックマークするとその見出しは、鼻で笑われるかもしれないけれど、こんな言葉になる。

 自分が抱えられる愛情をその最大出力でもってクリエイティブに表現していく。

 僕はそれをしていく。その決意だけは、この山の頂から、見えた。
 愛という言葉にアレルギーを持つ人もいるだろう。娘も文章が読めるようになってこの記事を読んだら鼻で笑うかもしれない。でも、愛という言葉でしか表現できない感情にかならず出会う。そのとき、それを、雑に受け流さず誰にも邪魔されず大事に磨いて育む。少なくとも僕は君にそれをしてきた。していく。それを僕の生き方とする。していく。入学おめでとう。


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