紙芝居屋

紙芝居屋  (ショートショート)

(ショートショート小説)
 
 
 おじいさんが買ってきた飴玉の袋を、おばあさんはやんわりと取り上げた。
 
「ほらほらおじいさん、子どもたちへの景品はこちらにしましょうね」
 
 おばあさんは買ってきたマシュマロの袋を渡す。
 
「しかし紙芝居屋と言えば飴玉って、昔から決まっとるんだがのう。こんなフワフワのもんじゃなくて」
 
「ホント、今どきの子は硬いものがねぇ。それよりホラ、早く新作に取りかからないと」
 
 まだらに記憶を飛ばすおじいさんのあしらいは手慣れたものだ。
 
「そうそう。完成させないと」
 
 新作の作成に意識が向いたおじいさんは、素直にマシュマロを受け取って机に向かう。次の出張紙芝居屋の上演は明日に迫っているのだ。
 
 ―― またこの飴捨てなくちゃ。
 
 食べ物を捨てたくないおばあさんは、ため息をつく。すでに友人知人にはあげ尽くした。昭和の中頃まで全国にいた紙芝居屋は、本来は駄菓子売りで飴を買ってくれたサービスとして紙芝居を演っていたのだ。そっくり真似たいおじいさんは、買い物に行くと必ず大玉の飴を仕入れてくる。でも上演させてくれる幼稚園からは、硬くて詰まらせやすいものは絶対にだめだと言われていた。
 
 おじいさんはわき目も振らずに作画している。仕事一筋で、引退後は家に閉じこもりっきりだった。こんな生き生きした表情が引き出せるなら、食べ物をちょっと捨てるくらいは仕方がないのかもしれない。
 
「幼稚園の事情も分かるが、あごをしっかり使わんと頭の発育だって遅れてしまうというものだぞ。まったく困った時代になったものだ。ほいっ」
 
 言いながら、おじいさんは描いた絵をおばあさんに差し出す。正気に戻ったときは、発音も明瞭で理路整然と話す。何度も飴を買ってきてしまうおじいさんと同じ人物とはとても思えない。働き盛りのときは口うるさい理屈屋だったのだ。困った時代だというのが口癖だった。
 
 おじいさんの紙芝居は案に相違して評判がいい。どうもボケがいいように作用しているようで、童心に還って役に入り込み、真柏の上演となるらしいのだ。
 
 古い壁画に描かれているような、落書きと見紛う絵。子どもたちに見せても何が書いてあるか分からないだろう。おばあさんはそれが描かれた紙のように薄いタブレットを受け取ると、孫たちからプレゼントされた『助ッチ』という箱型の機械に通す。するとその絵が少しまともになって吐き出される。それを数回繰り返すとだんだん整っていき、マンガ家の描いたような絵になってしまう。それをおじいさんに見せて頷いてもらえば、その1枚は完成である。ダメだと首を振られたときは、さらに上手くするか、あるいはちょっと戻して雑にする。調節するのだ。
 
 おばあさんはペラペラのタブレットを渡されるたびに、機械に通して完成させていく。3枚、5枚、10枚……。そして作業しながらいつも思う。
 
 ―― あんなひどい落書きがこれほど簡単にプロのレベルに変化しちゃうんだから、困った時代というわけでもないんじゃないですかね、おじいさん。
 
(おわり) 



書き物が好きな人間なので、リアクションはどれも捻ったお礼文ですが、本心は素直にうれしいです。具体的に頂き物がある「サポート」だけは真面目に書こうと思いましたが、すみません、やはり捻ってあります。でも本心は、心から感謝しています。