見出し画像

五日市憲法を見つけた男、色川大吉氏(4)全5回

 
 タクシーは、ひたすら上っていく。中央車線は、ときおり広くなったところしかない。あとは、乗用車でもすれ違いがむずかしそうな山道。
 山下自治会館を通り、深沢渓自然村をすぎる。まだ上る。
 
 運転手さんは慣れたもので、なかなかのスピードで進む。
 8人乗りの大所帯なので、旅行気分ということも手伝い、何人かが運転手さんに話しかけている。これがあるだろうから、ぼくはワゴンタクシーを選んだのだ。
 
「どう、やっぱり観光客多いんじゃないの。休みの日なんか儲かるでしょ?」
 と、助手席の人が聞く。気になる営収はいかに、という感じだ。
「いやぁ、最近中国のお客さんが多くて。待たせないで帰しちゃうし、ちょっと手前で降りて歩くし。むずかしいですねぇ」
 と、スピードを緩めず運転手さん。
「ダメかい、中国の人は?」
「そうですねぇ、渋滞になると、すぐ、ここから歩くって言いますし」
 なかなか苦労があるらしい。
 
 せっかく乗っているのだから、こういった話を仕入れたい。この、まだ名前を知らない大学の大先輩たちは、目的地に着くまで運転手さんの口を休めなかった。
二股に分かれた道を右に進み、深澤会館をすぎ、深澤ちいさな美術館を越えると、目的地に到着した。

五日市憲法を5

 
 観光名所になっているので、お休み処がある。この手前にバスの折り返し所のようなスペースがあり、タクシーはそこに停まった。
 

五日市憲法を2

 
 かつての屋敷跡なので、道に面して馬小屋が残る。五日市憲法草案が作られた当時、当然ながら鉄道はなかった。現在はとりあえず駅まで降りれば電車で都心に出ていけるが、当時は交通機関がない。馬は必需品だっただろう。

五日市憲法を1

 
 こちらは、当時の門の跡。手前、一段上がったところに屋敷があった。
 

五日市憲法を4

 
 その一段上がったところがここ。山の方を写した画像。さほど広いスペースではない。平坦地が少ないのだ。
 

五日市憲法を3

 
 そこに、案内板も構える。向こうの建物が、馬小屋と門だ。できるだけ人が画像に入らないように注意していたのだが、諸先輩方の動きがことのほかアクティブで、端に入ってしまった。なんとなく、OKさんっぽい。

五日市憲法1

 そして案内板から左に少し振ったところに、土蔵は建っていた。
 日を浴び、雨に打たれても、明治から今まで崩れず存在している。いや、明治には既にあったのだから、江戸期からだろう。
 憲法草案が作られた時期、1880年代には、この深澤屋敷に利光鶴松も居付いていた。小田急電鉄の創業者だ。きっとこの土蔵に入ったにちがいない。
 

五日市憲法3

 
 別角度から見た土蔵。向こうの屋根が馬小屋。
 日差しは強いが、なんとなくひんやりする。山深いので、生い茂る木が二酸化炭素を酸素に換えているのだろう。身体の中が浄化されていくような感じになる。
 
 この散策の案内人、新井勝紘さんがカギを手に、「それでは土蔵に入ってみましょう」と言った。
 
 
(5)につづく

この記事が参加している募集

#忘れられない先生

4,605件

#一度は行きたいあの場所

53,969件

書き物が好きな人間なので、リアクションはどれも捻ったお礼文ですが、本心は素直にうれしいです。具体的に頂き物がある「サポート」だけは真面目に書こうと思いましたが、すみません、やはり捻ってあります。でも本心は、心から感謝しています。