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印象に残る、寝過ごし体験談

 
 本を出したあとのうれしいことの一つが、読んだ人がその本の内容について話してくれること。内容に触れてくれるということは、「積読(つんどく)」になっていないということで、ホッと安心する。
 
 もっとも、他の小説よりは話しやすかったのかもしれない。『だいだい色の箱』はたくさんの人が使うJR中央線が舞台だったからだ。中央線を身近に感じている人はたくさんいる。その中で、深夜の「寝過ごし」がとても多かった。これは東武東上線の本のときにはさほど聞かなかったので、やっぱり中央線は寝過ごし客が多い路線だなぁと思った。
 
 その数が多いことにもおどろいたし、「えっ、この人が?」と、そういう失態をおかさないような人の報告でおどろいたりもした。
 
 高尾から立川まで歩いて戻った、などはかわいい方。むしろ寝過ごしとしてはポピュラーと言える。もちろん、実際にやればたいへんだ。そういうときは大抵酔っぱらっているわけで、日中のように元気ではない。ふらふら、というか、よたよた、というか、まぁそんな状態だ。それで未明の道を、延々歩いていくのだ。自分のミスなので、余計につらい。当然だけど、家に着く頃にはすっかり日が昇っている。
 
 聞いた中で、印象に残った話が2つある。ひとつは、大月行きで眠り込んで、大月から2つ手前の鳥沢で降りてしまったという話。高尾とは比べ物にならない、すごい乗り越しだ。
 
 ここまで行ってしまうのなら、へんに途中で降りないで終点の大月まで行った方がなにかと有利だ。田舎の途中駅で降りてしまったら、たとえ金銭的に余裕があったとしても対処しようがない。しかも鳥沢駅とくる。さびれたこの辺りの駅でも、特にさびれている駅だ。でもその友人は、目が覚めてとっさに、マズいっ! と焦って飛び降りてしまった。飛び降りてさらに、マズいっ! と思ったが、もう遅い。
 
 鳥沢駅に着く最後の電車だったようだ。他にだれも降りていなくて、長いホームはシーンと静まっていたそうだ。その異様な静けさで、酔いが飛んでしまったとのこと。
 
 1日たった1000人ちょっとしか使わない駅(今は1000人を切っている)。だから駅前が栄えているわけがない。タクシーも停まっていなかった。
 
 友人はとりあえず改札を出て、国道20号に出た。有名な甲州街道だが、車の通りは1台もない。動揺していた友人は、とぼとぼと東京方面に歩き出した。凍える季節でなかったことだけが救いだ。
 
 首都圏とちがって駅間が長く、となりの駅にたどり着くことすら困難だ。でも人間、いったん歩き出すとなかなか引き返せない。惰性で、右、左、と足を動かし続けた。
 
 しかしそれも限界となっていく。それでも、駅と駅の間に何もなく、止まる気も起きない。つらい、つらい、と思いながら、のろのろと歩いた。
 
 そこに、音と共に光が近づいてくる。友人は礼儀正しい男なのだが、このときはそうではなかったようだ。道に出て、そのトラックを止めた。そして運転手に事情を話す。今、こうして書けばたいしたことないが、暗いなかでたった一人途方に暮れる時間をすごせば、人間だれでもちょっとはおかしくなる。とにかく友人は助けてくださいと訴えた。
 
 そのトラックは親切にも、乗せてくれて友人の住む東京都下まで運んでくれたという。車の中で、道で大きく両手を振り回して、踊るように飛び跳ねながら「おーい! おーい!」と叫んでいた友人の真似をしてくれたという。
 
 
 
 もう1つ印象に残る話も、大月行きで寝過ごした男の話だ。彼は友人の友人で、東小金井に住んでいる男だった。
 
 荻窪で仕事終えて直帰となったので、ぼくは古本屋を覗いていた。そして出てきたところでばったり会ったのだ。そこで彼の行きつけの居酒屋に入り、飲んだ。
 
「おれなんか、大月まで乗り過ごしちゃったもんなぁ」
 
 と、声のでかい彼は豪快に笑いながら言った。
 
 その日は、その冬初めて雪が降った日だったという。つまり、鳥沢の友人よりかなり悪い条件だったことになる。新宿で飲んで、大月行きの最終に乗り、運悪く座れてしまった。そしてストンと寝落ちしてしまい、気づいたら大月だったという。
 
 乗務員にポンポンと肩を叩かれた彼は、すくっと立ってスタスタ歩いて改札を出てしまった。酔いと寝ぼけでの大悪手だ。酔っ払いを順調に追い出した駅は、すぐさまシャッターを閉める。
 
「なんで、改札出ちゃったのよ!?」
 
 ぼくはそこで言った。まぁ構内に残っていたって結局は追い出されるだろうが、しかし心の準備もなく酷寒の地に出ていってしまうよりよっぽどいい。
 
「だって、やっぱりなんか起こされたときって、寝過ごしたの隠して、当然ここで降りる予定でしたって振舞いたいじゃない」
 
 彼はそう説明した。なんとなく彼の言っていることは分かる。
 
 堂々と出たものの、駅前にタクシーはなく、ロータリーを見まわして開いている店はない。うっすらと雪が積もり、ここで数時間すごさなければならないのかと、ようやく彼は焦りだした。
 
 改札に戻るも、シャッターのどこからも光が洩れていない。開いてる店でもあるかと少しうろついたが、なにもない。
 
「こりゃ死んじゃうかも!」
 
 って思ったという。
 
 1時間粘ったらしい。よく粘れたなぁと思うが、しかし彼はそこで限界だった。国道20号のところまで出て、震えながら立ち、とにかく1台のタクシーをつかまえた。そして乗り込み、
 
「東小金井駅まで」
 
 と、運転手さんに言った。そんなに驚かれず、車は走り出したという。こういう客が時たまいるのかもしれない。
 
 高速に乗って、2時間以上かかって自宅に着いた。
 
「で、どれくらいの料金がかかったの?」
 
 ぼくは、この場合だれもが気になるであろうことを聞いた。
 
 忘れた。と、彼は言った。忘れたくなることなので、忘れたのだと彼は言った。
 
「でも忘れたけど、3万くらいだったような記憶がある」
 
 そしてそう付け加えた。
 
「よく持ってたじゃん」
 
 そう言うと、
 
「おれんち実家だったから」
  
 と、返ってきた。ははぁ、実家に。それで料金を忘れたと……。ぼくは思った。
 
 翌日仕事で、寝ると起きないから寝ないで出社したと言った。


 
  
 
 この2つが「寝過ごし」でつよく印象に残る話で、両方とも大月行きのエピソードだ。面白いが、小説ではここまで書けないなぁと思った。これくらい派手な寝過ごしだと、ちょっと共感してもらえなさそうだからだ。推理小説とちがうので、適度に、みんながやっているであろうことを書かなければならない。
 
 小説にはちょっとした「さじ加減」が必要だ。

書き物が好きな人間なので、リアクションはどれも捻ったお礼文ですが、本心は素直にうれしいです。具体的に頂き物がある「サポート」だけは真面目に書こうと思いましたが、すみません、やはり捻ってあります。でも本心は、心から感謝しています。