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師匠かく語る「作家になるには……」

 
 将棋ペンクラブでは、幹事会のあとに必ず酒盛りとなる。幹事の顔触れは長年さほど変化がないので、世の常であれば、時が経つにつれて酒量が減っていき、呑みの場から次第に遠ざかっていくのだが、将ペンはそうならない。ぼくはよくこの団体は「将ペン」でなく「酒ペン」だなと思う。
 
 酒場からは遠ざからないが、時とともに変化はある。悲しいことに、だんだんと安い店に変わっていっているのだ。
 
 個人の居酒屋や中華料理の店だったものが、チェーンの居酒屋になり、それがここのところファミレスになった。しかも、割引チケット持参でだ。幹事たちは年齢を重ねて肝臓こそ弱っていないが財布が弱ってきている。見渡してみれば、フリーは仕事が減り、勤め人は定年になり、みんな収入が減っている。
 
 でもさみしくは感じない。酒を飲んでいるときの「覇気」が落ちていないからだ。毎回話が盛り上がる。元気さは変わらない。
 
 ぼくはほぼ、湯川博士さんのとなりに座る。師匠のありがたいお話を拝聴するためだ。とはいっても、師匠湯川博士は何度も同じ話をするので、特段そこでありがたみを感じるわけではない。湯川さんが話が詰まったとき、相の手を入れる役目のためだ。「○○でしたよね」とか、「そこで○○したわけですよね」とか。門前の小僧が習わぬ経を読むわけだ。そのアシストで、つっかえた話が再びスムーズに進行していく。それがなんとも心地よい。詰まったトイレが流れるような感覚。ぼくはペッコンペッコンの係だ。その流れる心地よさを味わいたいから、この席に座るのだ。湯川さんがいつもより酔いがまわっているときなど、ぼくのアシストに「あんたよく知ってるね!」と眼を剥いて驚くことがある。それもまた心地よい。
 
 それでも、ためになる話は多い。湯川さんが文筆生活に入った話など、おおいに参考になった。
 
 湯川さんは大学卒業後、小出版社や雑誌社を腰かけ程度に勤めては、転々としていたらしい。今でいうところのフリーターだ。しばらく働かず、フリーの雀荘に居着いて凌いでいたこともあったという。実際湯川さんは麻雀を含めたボードゲーム全般に強い。
 
 そのとき1つの新人賞を受け、最終選考にまで残った。麻雀雑誌かなんかが主催した小さな賞だったようだ。とにかく、最後の5作にまでは残った。そこで湯川さんは受賞を逃したが、最終選考作すべてに寸評がつけられていた。
 
 寸評というのはありがたい。とにもかくにも、最終選考委員が作品を読んでくれたという証だ。書いてよかったなぁと思える、1つの大きな区切りだ。
 
 その湯川さんの応募作にも寸評が付けられていたという。
 
「5番目の評価でね。審査員が寸評を付けてくれてたんですよ。だれって? いやぁ名前は控えますが、ほら動物で有名な作家さん。で、寸評に、あきらかに筆力不足! と書かれていたんですよ。それでね、年間5000枚書くことってアドバイスも載っててね。5000枚だよ、年に」
 
 そこで湯川さんは、じゃあやってやろうと思い立った。そして実行するにあたって考えた。400字詰め原稿用紙を年に5000枚というのは、通常の暮らしではとてもむずかしい。1日10枚書いてさえ、3650枚だ。ではどうするか。書く仕事に就けば、クリアできるんじゃないだろうか。
 
 原稿を埋める仕事に就けば、日々イヤでも書くわけだから、その積み重ねで5000枚くらいはいくだろうという結論になった。ようは、編集者だ。腰掛でなくじっくり取り組むのであれば、今までのようなゴシップ雑誌では飽きてしまう。それで、好きな将棋の雑誌に入り込んだのだった。
 
 それが、『将棋ジャーナル』誌。アマ連の機関誌だ。それまで投稿していて、文章も載っていた。ちょうど編集長を探していたので、就任して本腰を入れて書きだしたのだという。
 
 アンカーだから、なんでも書いたという。自分の名前以外でも。それこそ、読者投稿欄から投書欄、占い、クイズまで。黒子に徹して、原稿を埋めに埋めた。雑誌は月刊化し、書かなければいけない量も増え、それでなんとか5000枚クリアできたという。そして湯川さんは7年やって編集長を降り、これまで筆1本で生活してきた。元々将棋は強かったが、そのとき将棋にどっぷり浸かったからだろう、残した著作に棋書も多い。
 
 作家になるには年間原稿用紙5000枚。この話は、ぼくの頭の中にとても強く根付いている。こういう話を面白おかしく聴けるから、幹事はやめられないのだ。

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将棋がスキ

書き物が好きな人間なので、リアクションはどれも捻ったお礼文ですが、本心は素直にうれしいです。具体的に頂き物がある「サポート」だけは真面目に書こうと思いましたが、すみません、やはり捻ってあります。でも本心は、心から感謝しています。