大晦日2

山登り  (ショートショート)

(ショートショート小説)
 
 
 彼が初めて本格的に山に登ったのは、まだ学生のときだった。
 
 それ以来彼は山の魅力に取り憑かれ、社会人になってからも、いっそう山にのめりこんでいった。
 
 彼は、休日を全て山に充てた。週末は言うに及ばず、有給休暇、年末年始の休み、夏休み。休みの前夜になると、身支度をして、静かに山へと向かって行くのだった。
 
 一般に山男に付きまとう「偏屈で付き合いづらい」というイメージ。しかし彼に、それは当てはまらなかった。仕事をおろそかにしたことはなく、むしろつまらぬミスで余計な仕事が増えないよう、完璧にこなした。同僚や上司との付き合いも平日の夜にしっかりこなし、学生時代の友人たちとの連絡も絶やさなかった。周りからは、誠実な男として親しまれていた。
 
 そんな男だったので女性たちからも人気があり、彼はその中から、彼女とならと思える女性を選び、しばらく付き合った後に結婚した。
 
 妻となったその女性も、多少だが山登りの経験があった。付き合っている間は何度か一緒に登ったが、結婚を機に彼女は一緒に登ることをやめた。彼の山に対する情熱を身近に感じ、邪魔をしたくないと思ったからだ。
 
 週末、独りでいるのは寂しかったが、彼は結婚後も変わらずやさしく、誠実で、仕事もしっかりこなしていたので、日常に不満はなかった。
 
 彼の方でも、山登りに理解があることに感謝し、それに応えるよう、仕事や家庭のことによりいっそう気を配った。
 
 やがて子供が生まれ、彼らの生活はさらに幸せなものへとなっていった。生まれた直後こそ山登りからいっとき離れたが、すぐにまた、山に向かう生活に戻っていった。山あっての彼だったし、山なくしては考えられない人生だった。妻もそれを理解していて、彼に早く復帰するよう勧めたほどだった。
 
 ある日妻の元に、夫が滑落して麓の病院に運び込まれているという連絡が入った。妻は涙を流す暇もなく彼の元へと急いだ。
 
 病院に駆け込んだ妻に医者が、重体に近い状態で、現在のところ意識がないと伝えた。ベッドで昏睡している彼の体には、さまざまな器具が取り付けられていた。
 
 手術が行われ、そのまま集中治療室に入っていった。一応手術は成功したが、まだ意識がなく、医者は、今夜が峠だと妻に伝えた。
 
 静まり返った待合室で意識の回復を待つ間、彼の温かみのある声や、太くて頼りがいのある腕、照れたような笑みを思い出し、目を潤ませた。そして抱いている子供を見て、この子が父親の顔を知らずに育っていくかもしれないと考えたとき、涙が溢れて止まらなくなった。
 
 明け方、少しまどろんでしまったときに、医師に肩を叩かれた。
 
「だんなさん、意識が戻りました。おそらくもう大丈夫でしょう」
 
 妻は、今度は安堵の涙を流した。
 
 
 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
 
 
 それ以来、彼は山登りをやめた。
 
 決意は固く、妻が勧めても、いつも笑ってやり過ごすのだった。
 
 事故からちょうど1年目、妻は真顔で、もう一度山に登ることを勧めてみた。
 
「あなたの人生そのものだったんだから。私のことは、本当に気にしないで」
  
「いや、本当にもう山はいいよ」
 
 彼はいつものように、微笑みながら答えるのだった。
 
「そう言ってくれるのはとてもうれしいけどさ、もう興味がないんだよ」
 
「本当に?」
 
「あぁ、本当だよ。なにしろ最大のヤマを越えちゃったんだから、もう他の山になんか興味がわかなくなっちゃったんだ。それにしても、すごいヤマだった。今でも鮮明に覚えてるよ」
 

(おわり)


書き物が好きな人間なので、リアクションはどれも捻ったお礼文ですが、本心は素直にうれしいです。具体的に頂き物がある「サポート」だけは真面目に書こうと思いましたが、すみません、やはり捻ってあります。でも本心は、心から感謝しています。