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小野寺ひかり『生者でも死人でもなく』


――本当に人、なのか。
どうやら迷い込んだ者ではないらしかった。体に傷を負っているのか、動きは大いにのろいが、着実に俺の元へと向かう意思の強さを感じとった。しばらくぶりの現世だ。


 永いまばたきだと嘯いて、瞼を閉じたのはいつだったか。あの頃は流行病が蔓延していた。人々は奇怪な図画を街のあちらこちらに掲示していた。みな、半信半疑ながら必死に疫病退散に祈りを捧げていたのだ。流行り病により戦禍はいくぶんか大人しかったといえるが、町のはずれには死人の魂がうようよと集まり行き場を失った。死者の魂は膨大で、あまたの人が「神よ、天に願いを」と祈りの言葉を俺に捧げ続けた。

 災厄の日々は過ぎ去ったのだ。しかし、開いた半眼から現世を見渡そうと思ったが平穏無事というわけではなさそうだ。かつて立派な姿を誇っていた社殿も捨て置かれてすっかり荒れ果てている。ずいぶん長い年月が経ってしまっていた。

「こおおお、こおおお、にいいい?」

神聖な境内をのっそり、のっそりと歩む影は、俺を探しているらしかった。突然の来訪者も、静謐な空間はただただ受け止めようとする。しかし雨風にさらされ、老朽化したそれらは重みに耐えきれず朽ち、今もまた、崩れ落ちている。
「ぐっううう……」来訪者は抜けた床板に足をとられたのか、と、低くうめくような声を発した。続けざまに、っつう…………と少し荒れた息遣いが響く。木々は呼応するように枝を揺らしたが、呼吸は浅く強く、うるさくなる一方で、まどろみの中にいた俺をしっかりと目覚めさせた。

――俺は願いを聞き届けた。が、成就はしなかったと悟る。
俺を呼んだ者は、まるで死人同然ではないか。若い女らしき風ぼうで、肩まで落ちたざんばら髪。しかし、左肩から腕にかけた大きな傷口。イタミが無いのかぷらんぷらんと垂れ下がっただけの左腕。今にも腐り落ちそうだ。顔色が青紫色に変色して三途の川に溺れたまま、現世をさ迷っているようにも思えた。

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