見出し画像

【小説】ふくだりょうこ『ここから始まる生活』文学フリマ特別号

「文芸誌Sugomori」は、5月29日開催の「第34回文学フリマ@東京」に出店します。新刊「文芸誌Sugomori vol.3」は「団地」がテーマです。イベント開催前に、作品を先行配信しています。
ブース番号は【サ-21】です。会場へのアクセスや文学フリマ(入場無料)については以下の公式サイトの案内をご確認ください。


「なんで団地なの?」
「なんで、って……」
 改めて部屋の中を見回して言った。
恋人……カイが私の部屋にきたのは何度目だろう。たぶん、片手で足りる。会うのはカイの部屋か、新宿辺りが多い。
 駅前の喧騒から離れた場所にある団地。全部で2000戸弱あるらしい、と最近、階下のおばちゃんから聞いた。テーブルの上には、そのおばちゃんからもらったクッキーが皿に盛ってある。バターが多めでしっとりとしていておいしい。手作りだそうだ。
「いや、なんか意外だな、ってずっと思ってたんだよね」
 私の部屋があるのは3階。エレベーターがないので、階段を使わなければならない。そのせいか、カイはまだ少し息が切れている。最近運動不足だと言っていたけれど、本当らしい。
「まあ……家賃が安いのと、広さ。3Kで管理費込みで5万円なんて東京じゃ考えられなくない?」
「確かに」
「ちょっと古い部分はあるけど、リノベーションは済んでいて水回りはきれい。団地内に公園もあるし、商店街もあるし、生活しやすいなーって」
「ふーん……」
 カイがじっと私を見つめる。どうして急にそんなことを聞いたんだろう。気まずくて、さりげなく視線を外す。
 家賃の安さも、広さも理由であることは間違いない。
 ただ、本音は違うところにある。
 就職してから実家に帰りたい、と何度も思った。思ったけど、実家はない。いや、ないというのは語弊がある。両親が住む場所、自分が帰る場所という意味では都内にマンションがある。子どもたちが全員、都内で就職をしたのを機に、それまで住んでいた静岡の家を引き払い、都内に引っ越したのだ。
「あれこれ物をたくさん残しても、あんたたちが困るだけでしょ? だからこれからは必要最低限のものだけでね」と母はカラカラと笑った。父は、初めての都会暮らしだと言って浮かれていた。
 あの家が好きだったのに。古い家ではあった。夏、玄関の引き戸を開けっぱなしにしていると勝手にカエルが入ってきたこともあった。冬は隙間風にぶるりと体を震わせることもあったけど、あの家の匂いが好きで、低い天井が好きで。頭ではわかっている。やたらと広く、古いあの家に両親二人で暮らせ、というのは酷であることも。両親がこっちに来てから家族が揃うことも増えた。
 東京は便利だ。でも他人との心の距離が遠い。私は他人との気軽なコミュニケーションに飢えていた。そう言うと、カイはいつも心配そうに眉をひそめた。
「変な人についてっちゃダメだよ」「もっと他人に警戒心を持ったほうがいい」
東京で就職しなければよかったのかもしれない。そう思うこともあった。
 そんなときに見つけたのが「団地」の存在だった。興味本位で内見した部屋は、実家と同じ匂いがした。天井が低かった。それだけで泣きそうになった。
 ……なんて話をしたら、カイにも引かれる気がした。ノスタルジーに浸っているだけと思われるかもしれないし、東京になじめない田舎者だと思われるかもしれない。ただ、ひとりで会話のない孤独を感じる家にいたくなかった。どんなに素敵なデザイナーズマンションだとしても。朝、家を出たときに近所の人と「おはようございます」だけじゃなくて「いい天気ですね」「今日は暑くなるみたいですね」というやりとりをしたかった。それが叶って、今はとても満足している。
「これは、なんだっけ」
 カイがクッキーを指さして言う。
「下に住んでいる人がくれたの。たくさん作ったから、って」
「手作り?」
「そう」
 「ふぅん」と言うと、カイはクッキーを一枚摘まみ上げて口に放り込んだ。思わず「えっ」と声をあげると、カイがびっくりしたように目を見開いた。
「なに? 食べたらダメだった?」
「ううん。おいしい?」
「うん」
 頷いて、もう一枚頬張る。そして小さく「うまいな」と言った。
 意外だった。
 私と違い、カイは東京生まれ東京育ち。実家は世田谷、一軒家。妹に「恋人の実家は世田谷の一軒家」と言ったら「そういう設定のコントがありそうだね」と笑っていた。よくわからないけど、私もつられて笑ってしまった。
 そんな彼のお母さんは料理研究家で、毎日のようにおいしい料理が出てくるという。だからと言って彼の舌が肥えているということもないのだけれど、知らない人のが作ったお菓子を食べるとは思っていなかった。
「紅茶、おかわりいる?」
「ううん」
 気まずい沈黙がおちる。最近のカイはいつも何か言いたげだ。何度か意を決して口を開くけれど、結局曖昧な話題に終始する。今日もそんな場面があった。でも、やっぱり何も言ってくれない。三枚目のクッキーを口に運んだあと、カイは腰を上げた。

ここから先は

3,598字
この記事のみ ¥ 200
期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?