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女性優位の職場で『お局様』がのさばるのは、管理職がだらしないからだ14

 Mちゃんは、いろいろと焦っていたのだと思います。可愛らしい部類の容姿でしたが、年齢はアラサー。女性が大多数の職場であることはもちろん、今のようにマッチングアプリもない時代ですから、彼女のお眼鏡に叶う男性との出会いも限られていたはずです。加えて、負けず嫌いの性格が災いしてか、恋愛が長続きしないらしいことも他のスタッフから聞き及んでおりました。ある日、彼女がポツリと口にしたのが、
「わたしの家は、絶える家ですから」
 つまり、女ばかりで跡取りがいない、伴侶となる男性に家を継いでもらう気でいたのかもしれません。結婚のハードルを高くする古くさい考えと思われるでしょうが、そんな時代でした。ですから、分院の末永い存続はMちゃんにとって絶対条件だったのです。
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密告する女帝

 このシリーズでエラソーなことを書き述べてきたわたくしですが、学位もなければ医局に在籍したこともない。勉強会やセミナーなんかにもまったく食指が動かない凡医の中の凡医。一般医──ジェネラル・プラクティスと言えば聞こえはよいですが、家内と生まれたばかりの赤ん坊を食べさせるため、日々押し寄せる虫歯と歯周病の洪水と格闘するので手一杯で、なんら技術的な“売り”というものがない。ですから必然的に、分院の経営戦略は「近い所狙い」になります。
 わたし、自慢じゃありませんけれど、ラポール形成には自信がありました。接客業のバイトで培った経験がものをいったのか、前の勤務先、その前の勤務先での私の評価を一言で云えば「如才ない」。理事長もわたしの歯科医としての能力よりも、そちらのほうを酌んでの抜擢だったのかもしれません。逆に言えば私はそれだけの歯医者だったのです。
 ところがです。ラポール形成、インフォームド・コンセントという文言は聞こえがいいですが、どんな場所でも通用するとは限りません。
 歯科界隈にお住まいの方ならばデンタルIQという言葉をご存じだと思いますが、歯科医が開業地を選定するに当たり、住民の健康意識の高い低いは考慮すべき要件です。つまり、デンタルIQが低い地域──ありていに申しますれば治療をありがたがらない、歯医者なんてどこも同じと思っている意識の低い住民層が暮らす地域を指します。
 開業コンサルタントなどは、これに住民の所得レベルを加えて、やりがいのない地域と言葉を変えて開業地から除外するようアドバイスするわけですが、住民所得とやりがい、疾病の有病率の相関性にはけっこう真実味があるようで、作家の橘玲さんはその著書『言ってはけない─残酷すぎる真実─』で述べております。

https://www.shinchosha.co.jp/book/610663/

 理事長はアナログの集客作戦でなんとかなると思っていたようですが、前回エントリで書いたように通院圏人口の絶対数は少ない。あまり言いたくはないのですが、やはりやりがいが薄い患者も少なくなかったわけです。
 具体例を列挙してみますと、
・義歯が落っこちるのが愁訴の患者で、義歯安定剤をはずしてリベースをして吸着を図ったら、義歯安定剤がつかないと苦情
・歯周病の治療計画を説明し、まず抜歯を提案したら「お前んとこでは歯が治らないんだな」と背を向ける
・予約の1時間も前に来院して「早く診ろ」と急かす
・治療が終わっても待合室を占拠して、いつまでテレビにかじりついて帰らない
・泥酔してやってくる
 これだけなら私が我慢していれば良かったのですが、本院から毎日のように、
「患者を雑に扱っているだろう、おまえ」
と突っ込みが入ります。
 ストレスがたまっていましたから、患者に対する言葉も居丈高になっていたのは認めますが、分院で発生した患者トラブルのほとんどすべてを理事長が把握していたのには驚きました。
 すべてはMちゃんの密告が原因だったのです。

Mちゃんの御注進はまるで盗聴器のようだった

 報告なのか密告なのかはともかく、Mちゃんが終業後毎日、理事長のいる本院へ立ち寄っていたことは薄々わかっていました。しかし、理事長の態度が日増しに硬化していく様を見るにつけ、彼女の報告は悪意を含んだ讒言であろうと思われるようになりました。
 理事長から浴びた理不尽な叱責を並べますと、以下のようになります。
・感染根管治療でのフレアアップ(再燃)は一件だけでしたが、「おまえが下手くそだから」と叱責。
・歯肉が腫れた飛び込みの急患を診た際、切開するタイミングではなかったため投薬のみで返したら、「何もしなかった」と叱責。
・臼歯部のブリッジTEKが破損→バイトさせたからだ。
・ターミナル状態の90歳がん患者の破損義歯を、修理ではなく新製しなかったのは何故か?
 思い出すだけで胸くそが悪くなってきましたからこの辺でやめますけど、およそ論理的な主張ではないのです。理事長はカルテをチェックしていましたから、Mちゃんの讒言だという明確な証拠はありません。しかし、日増しに彼女の態度が反抗的になるにつれて疑惑は確信へと変わっていきました。

勤務医に安住の職場は無い?

 それでもなんとかファンも現れるようになり、テナントの従業員が職場ぐるみで、新興住宅地からは家族そろって受診するようになってきました。が、絶対数が少ないので売り上げはあがりません。
 恐らくMちゃんは、毎日のように理事長から売り上げのことを言われていたのでしょう、彼女はある日あからさまに、
「シーラントより充填した方が点数があがりますよ」
 と、患者がいる前で平気で口にするようなります。売り上げ的に正しいのは間違いありません。しかし歯科医師としての矜持から私は反論します。明らかにスティッキー・フィッシャーではないと思うから予防的で、と。すると彼女、患児に取り付くや探針で着色した箇所をつつき、
「ほら、ちゃんとカリエスになっているじゃないですか」
 と、掘れた小窩裂溝を指さし鬼の首を取ったかのように顎をそらします。初期カリエスに対しては、もっともやってはいけないことでした。脆化してはいるが再石灰化の可能性があるエナメル質に、探針の強圧でトドメを刺したのですから。
 彼女の暴走は、若いスタッフたちへも及んでいきました。患者への応対が悪い、作業が遅いなどと事細かに。その都度、わたしは理不尽な扱いを受けたスタッフの擁護に回ります。Mちゃんは完全に孤立していました。それでも仕事はできるし、鉄のメンタルの持ち主であった彼女はめげません。しまいには私の指示を無視するようになっていきました。インレーの調整に手こずっていたので、「俺が代わろう」と言っても退きません。そればかりか勝手に治療計画を変更し、受付に治療終了の指示をだした患者のアポをとってみたり、と。
 我慢の限界でした。
 終業後、私は理事長宅へ乗り込んでいきます。
 Mちゃんを他の衛生士と交代させてくれ、さもなければ、私が辞めると。
 返ってきたのは予想通りの返答でした。
「わかった。後任がみつかり次第、先生は辞めていいよ」

崩れゆくパラダイス

 勢いで退職することになりましたが、後悔はありませんでした。次の職場が決まっているわけでなし、ましてや開業する予定も準備もしていません。驚いたのは家内でした。当然です。乳飲み子を抱え、借家暮らしで貯金もない。彼女の不安はわかっていましたが、とにかく辞めたかったのです。
 家内はわたしに憤慨しておりましたが、喧嘩にはなりませんでした。そして夜半、電話が鳴ります。
「先生、ごめんね」
 声の主は理事長の奥さんでした。

理事長ひとりが引き起こした戦争だったことがわかった

 私が辞める意思を固めたことを知って、理事長を問い詰めたのだそうです。
「悪く思わないでね。うちのダンナ、気に入らない従業員を辞めさせようとするときは、自分では言わないで誰かに言わせたり、自分から辞めるよう仕向けるのよ」
 破天荒で自由奔放な理事長とは冷戦中で、彼女は洗いざらいぶちまけます。さらに、
「先生、今までありがとう。できれば残ってほしいけど、もう無理よね?」
 筋圧形成に使うコンパウンド、デュラシール、ソフトライナーが使用禁止になったのも、理事長の背後でコンサルタントが糸を引いていたからであることもわかりました。なにせ分院の開設を主導した手前、赤字を出してはいけないからコストカットに走る。そのくせアナログ集客は手を抜かない。小冊子を作ってポスティングする、規制すれすれの広告をメディアに垂れ流す──やりきれない思いでした。

 やがて私の後任として、某大学の医局員が就職することになりました。チャラい先生でした。まるでオリラジの藤本のような。
 それでも知識だけはありました。
「あの症例は、もっとああすればいいのに。この患者は……」
 などと去りゆくわたしに御高説を垂れます。私立大学出身で学位もない私を完全になめきっていたに違いありません。マウントを取りたかったのでしょうか、様々な医学的な質問を浴びせてきましたが、それも最初のうちだけ。彼が投げた決め球を、専門用語を交えたフルスイングでことごとく場外へ弾き飛ばすものですから、しだいに口数が少なくなっていきます。
 退職まであと一週間に迫ったある日、総義歯の咬合採得の予定の患者を前に、後任に告げました。「俺はもうすぐおさらばで責任取れませんから、先生がバイトを採ってくださいよ」
 嫌味で言ったのではありません。なのに、
「ぼ、ぼ、ぼく〜、せ、先生のやり方も見てみたいな〜」
 万事がこんな調子でした。
 この様子に青ざめたのがMちゃん。馴れ馴れしくボディタッチを繰り返す後任を振り切って、「センセ、お辞めになる前にできるだけたくさん、難しい処置はやっていってください。総義歯の咬合採得とか乳歯の生切とか乳歯冠とか」
 と、そっと耳打ちします。
 是非もありませんでした。Mちゃんの眉間によった皺を目の当たりにしたその刹那、これまでの不愉快極まりない経緯を一瞬にして押し流し、かわりに楽しかった彼女との想い出で埋め尽くされていきます。
 退職まであと1週間に迫った小雪舞い散る早春のことでした。
 最終回のつもりでしたが、続きますww


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