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僕がこの仕事を選んだわけ

1)小学校編〜進撃の巨人〜

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杉本将 小学6年(12歳)

この時すでに彼の身長は170cmを超えていた。

ミニバスのゴールは確か260cmで使うボールは5号球で直径が22cm
僕は手が長く、リーチも85cmはあったはずなので

余裕でダンクできたんですね!

今だったら絶対、進撃の巨人ってあだ名が付いていたんじゃないかと思います笑
ただ、急激な成長により(もともとデカかったですか、小学4年から6年までに20cmは伸びたかと思います)成長痛に悩まされます。
小学2年から始めたミニバスは水、土、日の週3でしたが、他の日も走り回っていた僕には休息が少なかったのかもしれません。

特に膝は「有痛性分裂膝蓋骨」の診断が両側にでて、朝一の動き出しが痛いという高齢者レベルの日常生活を送っていました。
どこのチームでもある話ですが、主軸選手は練習を休めません。特に僕の時代はまだ精神論がゴリゴリ残っていて、「気合不足」「痛いならやめりゃーいいだろ」が当たり前の時代です。
ミニバスのルールで「各選手は3クォーターまでしかでれない」という縛りがあり、その時はベンチに居れるのですが総得点の7〜8割を量産していていた僕はともかく走りまくっていた気がします。
小学生から整形・接骨院には通っていて、このとき通っていた接骨院の先生には柔道整復師会でも今でもお世話になっています。思い返せば、ここが僕の原点だったのかも。

2)中学校編〜人間不信〜

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そして中学時代。僕の黄金時代は人より成長が早かった小学校時代です。
中学時代はその貯金でなんとかやり過ごすことになるのですが、周りの成長に伴い影を潜めてきます。そして小学生から痛めていた膝痛に加え、かばってプレーを続けた結果、腰痛もでてしまいます。

ピーク時は1週間歩けない時期もありました。(診断はMRIで腰椎ヘルニアと分離症疑いでした)
当時はMRIも近隣になかったですし、レントゲンで所見がでず、整形では「所見の異常もないし、気持ちの問題ではないか」といわれ接骨院や整体にいっても全く症状が改善せずに練習もできない・試合にも出れない日々が続きました。

学校では同じ姿勢でいることもできず、体勢を変えていると「集中力がない」「落ち着きがない」と先生からは怒られ、「腰痛です!」といっても信じてもらえず僕は徐々に人間不信になっていきました。
(この辺は「杉本・心の闇編」とでも題して有料コンテンツ(¥666とか?笑)にして残しておきましょうかね笑 
ただこの辺りの経験が今の僕の人格形成に結びついてきますし、今考えれば良い経験だったかもしれません。ご興味あればぜひ!今じゃ笑える話としてポップに書こうかと思います)
まあ僕も思春期・中2病で反抗はしてたし、眉毛も細かったので自業自得の部分もあります笑

そんな折にであったのが鍼灸院。

僕こう見えて、めっちゃ注射が嫌いで(笑
鍼治療は注射。仕事人のティリリ〜って音楽がなって暗殺されそうなイメージ。
灸治療はお仕置きでジュ〜!!ってイメージがあって、まじで行きたくなかったんですが腰痛レベルが前述したように、①授業中に座ってられない②歩けない などバスケはもちろん日常生活にも支障が出まくっていよいよ行く決心をしました。
僕の中では結構大きな決断で今でも幼心に腹を括ったのを覚えています。

そこはゴリゴリの鍼灸院で、使っていた鍼も中国鍼。(めっちゃ覚えてます)
僕の癒しといえば、置鍼(ちしん・鍼を打ってからそのままの状態で時間をおくこと)中に読めたバガボンド(SLUMDUNKでお馴染み!井上雄彦先生が描く、宮本武蔵の話です!)しか無く、これがあったから初回の施術を乗り越えられたんだと思います。

さて、ビビりながら終えたこの施術も、終わって動いてみたら、あら不思議!動作痛が全然なく、痛みで制限されていた前屈時痛がまじでありません。

すげーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!

っていうのが中2の僕の正直な感想で、鍼灸師だったおじいちゃん先生がめっちゃかっこよく、そしてヒーローに見えました。

それまでは僕の痛みに深く傾聴してくれたり共感してくれる大人はいませんでした。それだけでも思春期の僕には嬉しいことだったのかもしれませんが。

杉本将 中学3年(15歳)。鍼灸師になる決意を胸に秘め出します。

3)高校時代〜「スポーツ鍼灸」との出会い〜

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藤枝東高校に入学して、バスケ部ながらクラスメイトのサッカー部とめっちゃ仲良くなります。
ジュビロにいった中村祐輝選手やエスパルスに行った碓井健平選手とは今でも良いお付き合いをさせてもらっています。
そしてサッカー部をサポートしていたのが、トレーナー派遣を行っているMSマイスター。ここが「スポーツ鍼灸」との出会いです。

高1の冬、球技大会(サッカー)にて僕は左橈骨遠位端(コーレス)骨折、頭骨形状突起剥離骨折、尺骨頭粉砕骨折を受傷します。まじアホです笑

ただこの時の受傷シーンはヘディングで空中で先輩と接触し、頭からおちそうになり受け身を取ろうとして手を出したら自分の腰と地面で手首を挟んでしまい、手首は多発骨折、腰には血が溜まるという経験をしました。(今でもあの時にみた手関節の変形は忘れられません。「骨折確定!!」って文字が見えましたね笑)

この時はインハイ予選も近く、近くの整形外科でオペを勧められましたがオペをすると間に合わないと告げられ、保存を選択しレントゲン下で徒手整復をしてもらいました。
無麻酔で行い、整復時のあまりの激痛でマジ泣きしてその後から看護師さんたちにめっちゃ優しくしてもらい、翌日から行きづらくなったのは言うまでもありません笑
あとこの時、「ギブスにみんなからメッセージを書いてもらう」ってのが流行っていて?Drの前で嬉しそうにそのこと言ったらマジ怒られして書いてもらえなかったのを覚えています。こーいうの上手にやりましょう😂

さて、骨折部はギブスの全周固定でしたのでやることがないな〜なんて思っていたんですが、その時にサッカー部の友達の紹介でMSマイスターに通うことになります。

ここでギブスを巻いてない部位への鍼・電気治療や手指運動などのリハビリ、負傷部位以外のトレーニングなどをして、
「怪我の前よりも強くなって部活に戻ろう」と言ってくれた川崎トレーナーはじめスタッフさんたちに憧れをもったのは言うまでもありません。

4)まとめ〜結局これが言いたかったのよ〜

だらだらと2500文字も書いてしまいましたが、
①怪我が多かった
②いい人と出会えた
これが僕の進路を決めたと言っても過言ではありません。

子供だと言われてもしょうがない年齢でも一人の人間として見てくれた大人のおかげで今の僕はここにいます。

出会いに感謝。これに尽きますね。

長文読んでいただき、ありがとうございました😊

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