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【オススメ本】瀧本哲史『2020年6月30日にまたここで会おう』(星海舎、2020)

40歳と私

40歳になりました。

人生100年時代なんて言われますが、100歳まで仕事をしているイメージは湧かないので、その意味では人生の折り返し地点に入った境地です。

杉岡家で40歳という歳は、私の父が1999年に50歳で亡くなった時の母の年齢。そう考えると改めて40歳という歳は若かったんだと実感します。

父が亡くなった時私は19歳でした。その意味では父と死別してからの人生の方が長くなりました。光陰矢の如し。時が経つのは本当に早いですね。今娘が5歳ともうすぐ3歳ですので、同じ苦労をさせないためにもまずは健康に留意しないとと思い、ここ数ヶ月は徒歩通勤(と送迎)に切り替え、一日最低「6000歩」、平均「8000歩」、できれば「10000歩」歩くのを目標にしています。


杉岡家と「教師」という職業

現在私は大学の教員をしています。最近娘から「なんで大学の先生しているの?」と聞かれるようになりました。その時は「パパのパパや周りがみんな先生だったからだよ」と答えていますが、シンプルでいてこれが実は本質の答えだったりします。

というのも私の父は元々中高の社会科の教師で、途中から大学職員にキャリアを変え、大学で仕事をする背中を小さい頃から見てきたのです。この影響は大きい。そして、私の父の兄(つまり伯父)は高校の数学の教師でした。また、父の父(つまり祖父)は書家で複数の大学で非常勤講師として大学で教鞭を執っていましたし、父の母(つまり祖母)は私が生まれる前に亡くなったので会ったことありませんが小学校の先生でした。加えて、その祖母の兄弟も皆小学校や中学校の先生でしたし、父の義理の弟(つまり伯父)も現在大学で文学部の教授をしています。

その意味で現在大学教員歴はまだ11年(家庭教師歴を入れれば20年)ですが、「教師」という職業は杉岡家の家業みたいなところがあり、生まれ育った奈良こそなかなか恩返しができてないのですが、京都(京田辺・京都・福知山)でご縁をいただき、本当に感謝しています。アフター40も、基本的には「教育」にこだわり仕事をしたいと思っています(最近は高校のお仕事が増えてきたのも何かのご縁を感じます)。


京田辺と福知山

ところで、つい先日、京田辺と福知山と言えば、17年前(23歳)に私が創立した「きゅうたなべ倶楽部」の「150回目情報交換会」に誘っていただき、オンライン(zoom)で参戦しました。「コロナ憎し」と思っている時期もありましたが、怪我の功名?で時代は完全にオンラインがスタンダードなコミュニケーションスタイル(現在週9コマ全てオンライン講義をしています)となり、福知山にいながら、100キロ以上離れた京田辺の会合に参加することができました。その意味では「コロナに感謝」の面もあります。

この「情報交換会」を初めて実施したのは前の前の事務所でしたが、17年前の私が代表の時からこの事業を一番大切にしていました。なぜなら「多様な情報や学び(input)」と「多様な出会いや交流(output)」が交差する最大の仕掛けになっていたからです。現在京田辺市長の上村さんも当時若手の議員さんとして会員になって頂き、この集まりによく顔を出してくれていました(感謝)。

どうしても忘れられないのは2004年4月25日の回。この日は1周年記念の情報交換会を実施していたのですが、その最中に飛び込んできたのがJR「福知山」線の脱線事故の報でした。おそらく私が「福知山」という地名を意識したのはこの日だったと記憶しています(事後談ですが、現在仕事でお世話になっているJR西日本福知山支社の室長さんは当時運転士をしておられ、この事故を起こした列車と一駅前ですれ違ったとか。これまた不思議なご縁です)。

この事業、そして団体の共同代表を引き受けてくださり、17年間もこの団体を「細く、長く」支えてくださったのが市民代表の有地さんなのですが、実は有地さんも出身が「福知山」なんですよね。今から思えば本当に不思議なご縁です。

この有地さんを紹介くださったのは私の学部生時代のゼミの先生で環境経済の専門家であり、また京田辺市民として市ゴミ減量化推進委員をされていた郡嶌孝先生(同志社大学名誉教授)。大げさではなく、先生の紹介なしにはきゅうたなべ倶楽部はなく、きゅうたなべ倶楽部なくして、今の私はありません。その郡嶌先生が今回の「第150回情報交換会」の講師で、此度「福知山」にいながら「京田辺」にいる先生のお話を聞けたのですから、なんだかこの2つのまちにただならぬ不思議なご縁を感じた次第です(ちなみに第100回の時の講師は私でした)。

ちなみに私が「福知山」の小さな公立大学で大学教員として挑戦していること。これは実は京田辺で約20年前から実践していることと変わりません。すなわちそれは「大学と地域をつなぐ」「学生と市民をつなぐ」ことで、住み心地だけでなく、住み応えのあるUniver"c"ityを創ること。全くブレていません。変わったのは対象となる「地域」と自分の「立ち位置」だけで、今も、そしてこれからも教員としてその架け橋役を担いたいと思っています(チャンスがあれば京田辺と福知山をつなぐ何かもしてみたい)。


瀧本哲史さんと6月

今日たまたまエンジェル投資家で元京大の客員准教授だった故瀧本哲史さんの『2020年6月30日にまたここで会おう』という本を読んだのですが、こんな記述がありました。

「何かすごいリーダーを一人ぶち上げるより、世の中を変えそうな人をたくさん作って、誰がうまくいくかわからないけれども、そういう人たちに武器を与え、支援するような活動をした方が、実際に世の中を変えられる可能性は高いんじゃないか(中略)。つまり、カリスマモデルではなく、武器モデル」(p.17)

「大学というのは、いろんなバックグランドの人が集まって、その人たちが自由気ままに研究を進めるなかで刺激を与え合うことで、新しい知を生み出す場所であり、「ユニバーシティ」というのは多様な知恵や人材が結びつく理想の場のことななんですね」(p.133)

瀧本さんは昨年8月に47歳で残念ながらお亡くなりになるわけですが、40歳の誕生日にたまたまこの本を読もうと手にしたことに何かご縁を感じます。

40歳は不惑と言われます。基本的には私はあまり過去を振り返らない性格なのですが、人生の節目に惑わず「前(未来)」の道を進むためには、時に立ち止まり、「後ろ(過去)」や「手元(武器)」を確認することもありかと思います。

私の原点は「生と死」「家族」「教育」「地域」ということが改めて確認できました。節目の日にこの原点を確認させてくれた父と母、ワイフと娘、大学、京田辺と福知山、に改めて感謝したいと思います。

ボンボヤージュ!

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2020年6月17日  杉岡 秀紀 拝

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