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ファジアーノ岡山クロニクル2「ファジアーノ岡山NEXTの挑戦の軌跡~次世代に継承された想い~」

 古参のサポーターの方であれば、ファジアーノ岡山NEXT(以降は、略称のネクスファジ)の存在をご存知の方は、それなりにいらっしゃるかと思いますが、応援歴の浅いサポーターの方にとっては、ネクスファジって何?という方が多いのではないかと思います。今回のクロニクルでは、そのネクスファジの挑戦の記録と軌跡を振り返りたいと思います。

参考サイト
ファジアーノ岡山ネクスト(Wikipedia)
URLhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8E%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E3%83%8D%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%88

 まずは、歴史を振り返るところから始まりますが、最終的には課題や収穫、問題点など色々な角度からネクスファジについて触れて行きたいと思っています。それでは、よろしくお願いいたします。

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1、ファジアーノ岡山Nextの誕生

 時を遡る(さかのぼる)事、今から13年前の2009年にファジアーノ岡山NEXTは誕生した。その年は、ファジアーノ岡山が、J2に昇格して、初めてJ2で戦うことになったシーズンである。今でこそ、育成環境(ユースなどの下部組織)が整っていますが、当時はまだクラブが、プロクラブとして発足して間もなく歴史が浅かったため、トップクラブにユースの選手を昇格できる流れが確立できていなかった。

 そのため、トップクラブで戦える選手をネクスファジで育てるという選手育成の狙いと、怪我で離脱した選手の復帰に向けての調整の場を作るというのが、創立目的でした。

 今でこそ、ユース選手が、卒業後に直接トップチームに昇格できなかったり、Jリーガーになれなくても、大学を経由して、岡山以外のクラブでJリーガーになる選手が出てきていて、シーズンを重ねる毎に選手補強も的確になり、これまでにも個人昇格する選手を多く輩出してきた岡山ではあるが、ネクスファジ創設された当時は、Jリーグクラブ一年目であり、そのノウハウや他クラブや高校、ユース、大学などから選手を獲得するパイプもあまり確立できていなかった。

 当然、Jリーグクラブとしての運営基盤というのは脆弱で、疾風の如き勢いで、地域リーグからJ2に加盟こそしたが、昇格出来なければ消滅すらあったという話であった。今では、信じられない話ではあるが、そういった時代があったのだ。

 ネクスファジの初期選手の構成は、大卒ルーキーを中心とした選手であった。この時はまだ、下部組織から選手を昇格できる状態ではなく(高校3年のユース生がまだ不在であったという止む得ない事情があった)、この年から岡山の選手は、50番に迫る背番号の選手が増えた。実際に、人数は35選手から48選手の大所帯となったのだ。

2、前進と停滞

 一年目は、トップクラブがJ2リーグのクラブという事もあり、特例で、岡山県リーグ1部からの参入となった。トップクラブが、全国リーグを勝ち上がったJ2のプロクラブということもあり、アマチュアリーグである県1部リーグでも圧倒的な強さで全勝優勝した。この結果を受けて、中国地域県リーグ決勝大会でも優勝し、2010年から中国サッカーリーグへと昇格することができた。

 ただ、2010年から参加した中国サッカーリーグでは、初年度の4位で始まり、シーズンを重ねる毎に3位、2位、1位と着実に順位こそ上げたが、全国リーグであるJFLに参入するまでには、4年もの期間がかかってしまった。

 それでも苦しみながらも着実に地力をつけていき、ネクスト第37回全国地域サッカーリーグ決勝大会で準優勝できたことで、JFL理事会にてJFLへの入会が承認された。

 2013年のシーズンまでは、ルーキーを軸にした編成であったことに変わりないが2014シーズンからは、ようやくユースから昇格組が加わることとなる。創設から実に5年間かかってようやく実現した。

3、厳しい全国リーグ

 J3のなかった当時として、J2の下のカテゴリーであったJFLで戦うことができる。育成としては、最高の舞台であった。しかし、練習あっての試合であり、試合あっての練習であり、トップクラブとの練習を組めれば大きいが、基本的には、別メニューである。22人もいないことで、紅白戦をすることもできないのが、実情であった。

 選手としては、磨けば光る才能があったとしても、やはりJ2加入を目指すプロクラブや強豪のアマチュアクラブに、”チーム"で勝つことは難しかった。

 結果は、やはりというか。11位、15位、16位と年々順位を下げていくこととなった。JFLで、有料の試合となった際に当初は、1000人を越える事もあったが、シーズンと試合を重ねて行くにつれて、成績が下降線を辿る様に、観客数も減っていく事となった。

 筆者である私は、解散が決まる試合までは、ダブルヘッダーの試合を中心に、観戦してきた。よって、戦術的にも戦力的にも、その問題点を実際に試合で観てきた。組織的な問題もあったが、選手は最後まで諦めずに戦っていた事が印象的であったが、勝てなければ厳しい現実がまっているのもまたプロの世界である。

4、活動終了

 セカンドチームとして、J3参入を打診したが、Jリーグ側に認められず、JFLからの降格が決まる順位であったこともあり、8年間の活動に終止符を打つこととなったネクスファジ。

 最後の試合は、津山の試合であったと記憶している。当時は、コロナ渦ではなく、試合後に選手や監督と握手で帰宅の途につく、サポーターに感謝の気持ちを伝えた。

 選手それぞれの表情の違いから、セカンドチームの難しさを感じつつもやはりセカンドクラブでも一つのチームが解散することは、寂しく、センチメンタルな心情となった。

 解散からそれなりの月日が過ぎて、知らないサポーターが出てきつつある今だからこそ、その歴史を知っている一人として、ここまでの軌跡と記録だけではなく、この挑戦についての是非を客観的視点を持って、より踏み込んで、ここからは書き綴っていたきたいと思う。

5、選手登録問題

 Jリーグにおけるセカンドチームの難しさは、野球と違い選手登録の変更の自由度が低いという問題があった。具体的には、トップチームでプレーするためには、キャンプでアピールして、シーズン開幕前のトップチームの選手として登録されるか、夏場の移籍ウインドーで、トップクラブの選手として登録変更をする必要があった。

 当然、セカンドチームでの期間が長い選手と、すぐに昇格できる選手というのは、はっきりしていて、J2からJ1にいった選手や主軸として活躍した選手などは、直ぐにトップクラブに登録されている。

 ネクスファジの期間が長い選手は、長くなればなるほど、焦りは大きくなり、セカンドチームでのプレーが、言い渡された選手の絶望は想像に容易くない。

 せめて、自由に入れ替えができていれば、出場機会を掴めた可能性もあったかもしれないが、実情は厳しく、ネクスファジの選手だけ11人集めるのも困難で、ユースの選手を借りてなんとか試合を成立させるので、いっぱいいっぱいでもあった。

6、意識の乖離

 JFLに昇格した頃からこの差は、顕著であった。ユース生ではなく、高卒ルーキーや大卒ルーキーは、憧れのJリーガーになれると信じて、ファジアーノ岡山に加入したが、蓋を開けて見ると、J2の舞台ではなく、その下のカテゴリーでのプレーする日々が続いた。

 当時は、練習場もない時期もあり、練習も別々であることが多かった。ユース生にとっては、ユースの延長という感覚にも近く、トップチームへの昇格を夢実て、岡山のユニフォームを背負って戦う事に、高い士気をもってプレーしていたが、やはり実力が伴わない部分は、どうしてもあった。

 また、人数を揃えるために、大人に混じっていたユース生の一部は、やはり体格や基礎がしっかりできていない状態で、大人に混じったために、怪我リスクは高くなる。一番厳しい守備を受けるCFの石川 隆汰は、負傷がちになった。それでもそのシーズンのチーム最多得点を記録したが、影響がなかったともあったとも言えないものの貴重な経験にもなったとも言えるので、難しいところである。

 そして、トップクラブでの出場を目指すことも視野にできる選手達のクオリティは、輝くものこそあったが、練習の人数の部分で、組織練習ができないという点で、アマチュアより酷い環境に近く伸び悩んだ部分は、否定できない。

 この実情を見ていた学生からは、ファジアーノ岡山に来ると、セカンドチームでプレーすることとなってしまうという現実を目にしたことで、有力な選手の加入が難しくなっていた可能性も否定できない。

 そのため人数を揃えるためにセレクションを実施したが、JFLというカテゴリーどころか、各地域リーグの選手の応募が多く、セカンドクラブとしての魅力の乏しさを露呈することになってしまった。

 せめて、J3に参入できていれば、まだ少し活動を続けることができたかもしれないが、そのJ3に認められたG大阪とFC東京のセカンドチームも数年で、解散したことからもやはりJリーグにセカンドクラブは、難しいという事実を突き付けられてしまった。

7、ユースの希望

 しかし、全てが失敗であった訳では無い。その後、他クラブでJリーガーとして活躍する選手も誕生した。千布 一輝である。ヴェルスパ大分を経てテゲバジャーロ宮崎で、JFLからJ3への昇格を経験して主軸としてプレーし、来季は、鹿児島に移籍が決まった。

 当時のユース生の中では、一番の出世株である。生粋のファジアーノユース生ではないもののU-18の一期生として、未だにJリーガーとして、第一線でプレーしている唯一の選手である。

 ネクスファジの10番を背負っていた加藤健人は、トップチームに2年間残る事ができたが出場機会はなく、その後おこしやす京都を経て、J3の群馬やJFLのクラブでプレーしたが、定着できず現在は、関西1部リーグのアルテリーヴォ和歌山からJリーグ加盟を目指す戦いに身を置いている。

 当時のユース選手の多くは、引退してしまったが、ネクスファジでの経験は今に生きていることは、間違いないが、それでもプロとしてJリーガーとして大成するのは、まだまだ難しく、トップカテゴリーであるJ1まで辿り着いたユース出身の選手は、未だに誕生していない。

 山田 恭也が、22シーズンの開幕前に期限付き移籍先の高知で経験を積んで岡山に戻ってくることが発表されたように、ファジアーノ岡山ユース出身のJリーガーは、徐々に増えてきている。

 成功か失敗かの判断は、サッカー選手であれば、高いレベルでプレーして、活躍してるかどうかが一番であり、そういった意味でも挑戦し続けることで、少しずつであるが、ファジアーノ岡山というクラブは、前進できている。

8、Jリーガーを夢見て

 Jリーガーになれる。そういった希望を夢に岡山のユニフォームを着てプレーすることを選んだ多くの高卒ルーキーや大卒ルーキーが、ネクスファジでのプレーを余儀なくされた。しかし、そのままトップチームに上がれなかった選手ばかりではない。

 23シーズンに向けて、トライアウトを経て、隣県の福山FCへの加入が発表された三村 真も、実はネクスファジスタートだった。2011年〜2020年に岡山に在籍していた切れ味鋭い仕掛けが武器の高速ドリブラーだ。一年目は、ネクスファジで復帰に向けて、調整を続けていたためプレーすることはできなかったが、2年目に中国リーグではあるが、10試合で9得点の活躍。この活躍が、認められて翌年からトップチームに昇格すると、そこからは、トップチームでの実績を積み重ねた選手である。

 当時、中国リーグをチェックされていた熱心なサポーターに、「昇格しそうな有望な選手はいますか?」と尋ねたところ、三村 真の名前が出てきました。実際に、昇格したことを考えると、やはり目を見張るプレーができれば、しっかり、上がれる証拠にもなった。

 同じく中国リーグで活躍して、トップチームに昇りつめたのが、CBの篠原 弘次郎だ。2年目の途中からトップチーム登録になると、少しずつ出場機会を重ねた。熊本に期限付き移籍後からは、主軸としてプレー。岡山に戻って活躍した時には、CB岩政 大樹に対しても臆さない熱い面もあった。その後は、福岡や松本でプレーした。

 一方で、岡山のトップチームで活躍できなかった選手もいるが、それでもJ3でプレーできた選手もいる。強気なドリブルが武器の呉 大陸は、J3の秋田や相模原でプレーし、運動量と積極的な仕掛けが武器の飯田 涼もJ3の相模原で3年間プレーした。スピードを武器に得点を量産した小林 秀正は、J3で長野でプレーした。運動量に決定力が武器の新中 剛史は、鹿児島でJFLからJ3昇格を経験し、J3でもプレーした。他にもJ3でプレーした選手やカテゴリーを代えてプレーした選手もいるが、申し訳ないが、今回は割愛させていただきたい。

 ネクスファジも長かったが、岡山以外でのJ2デビューできた選手もいる。それは、GKの松原 修平である。ネクスファジから昇格し、トップチーム登録となったが、岡山で出場できず、移籍することとなった。主に讃岐と群馬で、J2やJ3での出場機会を掴んだ。一度は、J1の湘南に移籍したが、出場機会はなく、1年で離れることになった。札幌ユース出身だったこともあり、現在は、札幌に落ち着くこととなり、J1デビューを目指して、今も日々練習からアピールを続けている。

9、華麗なる転身

 Jリーガーのセカンドキャリアが話題になることがあるが、ネクスファジでのプロ生活をスタートした選手の中には、サッカー以外のセカンドキャリアを歩み始めた選手もいる。

 竹内 翼は、競輪選手となった。竹内 翼で、検索すると、プロフィールがでてくる。現在は、S級1班のカテゴリーで、プレーしているようだ。

 ファビオ岡は、なんと若くして実業家となり、現在も取締役社長である。

 他にも知られていないだけで、様々な道に進んだ選手もいるだろう。プロ選手としての経験が糧になったかは、本人しか分からないことだが、苦しかった経験や努力した経験は、前に進む原動力になることは間違いなく、本人の気持ち次第で、一時的には失敗に感じても成功に変える事ができる。

10、ファジアーノのために

 プロとしては、トップチームの選手として活躍できなかったかもしれないが、ファジアーノ岡山NXTという名前のように、次の世代の選手の育成に携わるようになった選手もネクスファジの選手の中にはいる。

 セレクションで、加入した選手の1人であった宮川 晃至である。引退後にファジアーノ岡山のスクールスタッフに加わり、育成に携わり、現在もU-12コーチとして、若手育成に尽力している。

 ネクスファジで、抜群のリーダーシップを発揮した西原 崇志は、引退後にアカデミーチャレンジスクールコーチと強化部強化担当と経て、2021年からアカデミーマネージャーに就任した。

 育成を目的の1つであったとしたファジアーノ岡山ネクストであるが、そこでの経験を活かして、育成やチーム強化に還元するという素晴らしい成功例だ。正直、トップチームに比べてセカンドチームは、練習環境やチームの選手層という部分で、厳しい環境ではあったが、だからこそ、育成環境の重要性や勝つための選手や気持ちの強い選手を育てるためには何が必要かを誰よりも理解できている1人でもある。

 そして、ネクスファジを最後に指揮した監督である牧内 辰也監督は、U-18リードコーチ/アカデミーダイレクター/U-15リードコーチの三役を担っている。

 確認出来るのは、この3名の方ではあるが、何らかの形でファジと繋がりのある場所で働き、ファジのために、今でも何らかの形で、関与されている元ネクスファジの選手や関係者の方もいるかもしれない。

11、ネクスファジのエース

 2013年から2016年の4年間、ネクスファジのエースとして活躍したのが、藤岡 浩介だ。4年間で、88試合に出場して、21得点も決めた。背後に抜け出す動き出しの巧さや高いシュート技術により、難しいシュートを決める感覚に優れた本格派のストライカーだ。

 トップチームでの出場の可能性を信じて、ネクスファジで努力を続けた。しかし、最後までトップチームで出場することは、叶わなかった。ネクスファジ解散後は、地元のテゲバジャーロ宮崎に移籍し、九州サッカーリーグの優勝と全国地域サッカーチャンピオンズリーグ2017の準優勝に貢献し、JFL昇格を経験した。

 JFLでも主軸として活躍した藤岡 浩介は、3年間JFLでプレー。3年目には、JFLで2位となり、J3への昇格を決めた。昇格元年には、J2に昇格できる順位だったが、J2ライセンスの条件を宮崎が満たしていなかったためJ2昇格できなかったが、J3での2位という宮崎の大躍進に貢献。藤岡 浩介自身も初の二桁得点の10ゴールでシーズンを終えた。

 宮崎での活躍を認められた藤岡 浩介は、同カテゴリーのFC岐阜に移籍。そこでも1年目ながら自身のシーズン最多得点を更新しての16ゴール。J3リーグの得点王まで1点差と迫る2位での好成績であった。2年連続でのJ3リーグ2位となる多くの得点を決めて、才能を開花させつつある藤岡 浩介。来季に向けての動向が注目されている。

 しかしながら、高校時代の実績を考えると、脚光を浴びることとなったのが遅すぎるぐらいである。高校3年の時には、U-18九州プリンスリーグで得点ランキング3位であった。この時のランキング争いした選手の今の活躍を考えると、岡山に来た事で、遠回りした可能性すらある。その時のメンバーで、プロになった選手を紹介していく。

 2位ではあったのは、金森 健志。J1のアビスパ福岡で長くプレーしている。4位は豊川 雄太。岡山でもプレーしていたが、C大阪や海外でのプレーを経て、現在はJ1の京都でプレーしている。5位は、國分 伸太郎。岡山県出身の選手で、現在はJ2のモンテディオ山形で主軸として活躍、22シーズンでは岡山相手にFKを直接決めている。6位の村田 航一は、明治大学を経て、J2の水戸で主軸として活躍している。1位であったパブロ・ヤン・フェレイラは、J2の熊本でプロ生活をスタートさせたが、怪我の影響があったのか、満足な成績を残すことなく、既に引退を決めている。

 無駄な経験はない。それは、理解していても岡山に加入し、セカンドチームに回されていなければ、J2やJ1で活躍できたのではないか?と、サポーター目線では、考えてしまいそうになるが、認めたくない現実でもあるだろう。そして、それは、藤岡 浩介自身が一番思っている事かもしれない。何故なら、岡山に加入を決断したのも藤岡 浩介であり、岡山でプレーし続けたのも藤岡 浩介である。オファーがなかったのかもしれないが、それでも岡山にネクスファジに残って、トップチームを目指すことを選び岡山でのトップチームでデビューする挑戦を続けた。

 また、人数が少なく、練習が満足にできなかったという話をしたが、だからこそ、そこには、当事者にしか分からない絆があったはずだ。ネクスファジで一緒にプレーした選手は、もしかすると、J3まで昇りつめて2021と2022シーズンの2年連続でのJ3リーグ2位の好成績を、最も喜んで応援しているのは、当時のチームメートかもしれない。

 そして、Jリーグの舞台に戻ってくるまでには時間こそかかったが、厳しい環境だからだったからこそ、今の藤岡 浩介があるのだ。それは紛れもない事実である。

 もしかすると、岡山への加入が、失敗であったと考えてしまう時もあったかもしれないし、今でもそう考える時があるかもしれない。それでもその経験が、今の逆境にも負けない不屈のストライカーの藤岡 浩介を誕生して、藤岡 浩介自身の心の支えになっているとしたら、サポーターの1人として救われる部分はある。ただ、ファジアーノ岡山というクラブでプレーした選手である藤岡 浩介が、ここからJ2やJ1へとステップアップして活躍してくれることを心より願うことは、サポーターの総意であることは変わりなく、今回の私の記事を読んで、ネクスファジで活躍した選手を応援したいという気持ちが強くなったのであれば、サポーターの1人として、嬉しい。

12、ダービーとカードフェス

 余談ながらネクスファジにも熱くなれるものはあった。それは、三菱自動車水島FCとの岡山ダービーである。同カテゴリーでのダービー戦は2011~2013年の3年間。後は、毎年天皇杯の岡山県代表の座をかけて、解散するまで毎年戦って来た。

 セカンドチームとはいえ、ファジアーノ岡山という名前を背負っている以上負けられない対戦であった。そして、何より岡山では、TVで放送があり、より熱くなる試合であった。中国リーグの対戦2010以前の対戦成績は確認することができなかったが、2011年以降の天皇杯では、岡山県代表の座を解散するまで死守することはできた。

 解散した2016年の決勝では、僅差で負けそうであったと記憶しているが、セカンドチームとはいえ、ファジアーノ岡山、そしてプロとしての意地を見せて、天皇杯の岡山県代表をかけて行われる試合での有終の美を飾った。

 また、もう1つ盛り上がったのがカードフェスである。今は、トップリーグしかないとはいえ、コンプが大変なカードフェス。当時は、なんとネクスファジの選手のカードもあり、より難易度が高かった。そのため、大人買いをするサポーターは多く、お気に入りの選手同士のトレードや、コンプを目指してのトレードするサポーターが続出した。もしかすると、今以上の売上げがあったかもしれない。

 他にも熱くなれるものはあったかもしれないが、この2つはネクスファジがあったからこそ、より盛り上がったことである。今となっては、ダービーも50選手規模のカードフェスもなくなったのは寂しいが、トップチームや18歳以下のユースに資本や人材を集約することで、サッカークラブとして前進するだけではなく、スポーツクラブとしても、テニスプレーヤーとプロ契約を初めて結ぶなど、ファジアーノ岡山の挑戦の歩みを止める事はない。きっとそこには、ネクスファジに挑戦した経験も活かしてくれることも間違いないだろう。

13、ネクスファジまとめ

 解散している以上、結論を一つに絞れと言われれば、組織としては失敗であったのは間違いない。何故なら、成功であれば、現在も存続しているからである。解散理由も選手が良く伸びるのは、高校年代までで、大人になってからの伸び代には、やはり限界があるというものであったと記憶している。育成は、下部組織で行い、この年代で活躍している選手や即戦力となる選手の獲得に力を入れて行く方が、現実的であるという結論で、解散が決まった。

 実際に、当時(2016年12月)の公式サイトのニュース内でも以下のように書かれていた。

「ファジアーノ岡山ネクストの活動は今シーズンをもって終了となりますが、選手の育成におきましては、ユース年代までで完成形に近づかせ、以降は厳しいプロフェッショナルの世界で切磋琢磨することで成長を加速させていきたいと考えております。」

ファジアーノ岡山公式サイトのニュースより一部引用

 物事は、白黒を付けるべき時はあることは理解しているが、ここまで読んで下さった方であれば、失敗をどう成功に繋げるかという事の方が重要で、そこに向けて岡山が前進してきたこと。そして、ファジサポの多くは、それができるのがファジアーノ岡山のフロントであることは、私以上に共有された周知の事実かと思います。

 失敗を糧に現在の自分に活かす事ができれば、失敗もその判断や選択は正解であったと結論を変えることも可能だ。そして、サッカー選手として、そこを糧に活躍している選手もいる。サッカー以外でも経験を活かして、活躍している方もいる。

 ネクスファジの挑戦があったから今のファジアーノ岡山やファジアーノ岡山ユースがあるかもしれない。組織として、上を目指す以上、時に非情な決断を下すことや目標を達成できず、残酷な結果の失敗に終わる事もあるかもしれない。

 しかし、ファジアーノ岡山は、常に前を見続けて、失敗を糧に成功に繋げてきた。ネクスファジの挑戦もその1つだ。ネクスファジの創設から13年が経ち、解散から6年経ったが、今だからこそ、知っていて欲しい一つの挑戦であり、今だからこそ見えてくる部分もある。

 そして、ネクスファジで長く活躍し、今でも頂きを目指して、挑戦を続ける藤岡 浩介や千布 一輝の両選手をより応援したい。もしくは、気になって調べてみた。そういったサポーターが1人でも増えることに繋がったのであれば、嬉しく思う。

 最後になるが、物事には、表と裏があり、十人十色の答えがある。ここでは、書ききれなかったことや伝えきれなかった部分もあるかもしれない。しかし、ファジアーノ岡山の歴史の1つとして、ファジアーノ岡山NEXTの挑戦があったこと。その挑戦の軌跡を少しでも皆さんにお伝えすることができたとしたら、1人のサポーターとして嬉しく思う。

 そして、ファジアーノ岡山NEXTの挑戦や軌跡の中での経験や想いが、ファジアーノ岡山ファミリーの中で、これからも的確にフィートバックされて行き、次世代へと継承され、岡山が前進する原動力になることを心より願うばかりである。

 最後まで読んで下さり有難うございました。

文章=杉野 雅昭
text=Masaaki Sugino

筆者紹介

杉野 雅昭
 某ゲームから野球派からサッカー派へと移籍。当時チーム名が、ジェフユナイテッド市原であった現ジェフユナイテッド千葉に興味を持つ。オシム(監督)と阿部 勇樹(選手)を中心にJリーグと代表をチェックしてきた。2008年より地元クラブであるファジアーノ岡山のサポーターデビュー。そこから、多くのファジの試合を見てきた。忘れることのできないエピソードが年々増え、シーズンを重ねる毎に想いは強く深くなり、2021シーズンは、初めて号泣。心からサッカー好きで、戦術の奥深さや、プレーの凄さなど、サッカーの本質での攻防にフォーカスを当てて、客観性と冷静さを意識した文章を投稿している。そのレビューへと突き動かす原動力は、サッカーへの情熱。熱さと冷静さを兼ね備えたフォーカスを今後も目指して、投稿を目指していくことで、サッカーの魅力の発信と、サッカーを通じた交流による、感動の共有と縁の繋がりが、楽しみ。ただ、たまに調子に乗り過ぎて失敗する悪癖もあるので、治したいとは思っている。そんな私ですが、noteやSNS、スタジアム等で、交流できたら嬉しく思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。

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自分の感じた事を大事にしつつ、サッカーを中心に記事を投稿しています。今後とも、よろしくお願いいたします。