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日本よ、呪われよ

もう10年以上前だが、『地球の歩き方』(ダイヤモンド社)という海外ガイドブックをつくっていて、フランスに取材に行ったとき、パリ在住の日本人と話す機会があった。

 貿易会社を経営している方で、様々な外国人、職業人と会うという。その中には、今も存続する貴族階級もいる。在住氏に言わせれば、たとえ苗字に「de(ドゥ)」がなくとも、貴族は見てわかるのだという。ちなみに貴族と庶民を識別する、苗字のドゥは、18世紀のフランス革命で廃止されている。国民はみな市民となり、貴族も「表面的には」撤廃されたからだ。

階級社会の頂点、東西の違い

 だが、彼らは21世紀になっても、伯爵や子爵など、貴族同士で結婚することが多い。稀に庶民が彼らと結婚すれば(玉の輿)、森の奥の城に住んだり、使用人を何人も抱えるパリの邸宅に住んだりする。生まれた子供は貴族の体型を継承する。

 谷崎潤一郎の『春琴抄』によれば、もと華族の深窓の令嬢などは、腺病質で、食が細く、肉体労働などしないから立って歩くのもやっとという具合、一日奥まった座敷にいて顔色青白く、琴をつまびく……それが本物の「令嬢」なのだそうだ。それを読んだとき、清王朝のラストエンペラー、愛新覚羅溥儀を思い出した。映画版ではたくましいジョン・ローンが演じているが、実際の溥儀は、写真でみると、軍服が何かのコスプレに見えるほど線が細く、「実際はペンより重い物など持ったことないのだろう」と思わせる、まさに崩壊寸前の王朝にふさわしい腺病質の青年である(写真)。勲章すら重すぎて似合わないその姿は、谷崎のいう「滅びの美学」を全身で表現しているといってよく、本当は、こういうキャラクターがファンダメンタル映画(王朝映画)には必要ではないか?

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清王朝最後の皇子、愛新覚羅溥儀
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滅びの美学は谷崎の生涯のテーマだった

 さて、アジアの貴族がありえないほど脆弱なのに比べ、フランスの貴族は、肩幅広く、体幹がしっかりとしていて、姿勢がよく、堂々としている。圧倒的存在感の元は中世の騎士物語にさかのぼり、彼らは内戦で戦い、王を守り、その褒章として土地をたまわり貴族の称号を得た。支配者の末裔だから、世知にも奸智にも長け、文武両道なのだそうである。それを数百年踏襲し、だからほとんど高学歴で、背が高い。

「あと、話し方が違う」

彼は言った。フランス語に詳しくないからよくわからないが、リエゾンという母音がつながった流れるような話し方が完璧にできる。敬語に類する言葉づかいも完璧で音楽のようだ。それを聞いて、今度は皇族の方々を思い出した。体型が突出しているということはないが、日本のさる方々の言葉づかいは明瞭でわかりやすい。わかりやすいということは、他人に配慮できる余裕があるということだ。敬語の使い方も完璧で、声の耳ざわりもよく、人をどこか高いところへ連れていく、静かな迫力がある。

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王を守った騎士たち

「丸の内のサラリーマン」のピュアさ

ただ、日本の皇室はほんの数人で、フランスの貴族のように、「仕事をしていて普通に会う」ほど多くはない。下手をすればテレビでしか見たことがない、という方のほうが多いのではないか。それくらい稀少なのである。

記号としての特権階級に、日本ではどこで会えるのかな、と思ったら、写真家アラーキーが東京のサラリーマンを撮影した特集を思い出した。

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写真集『男の顔面』(荒木経惟)より


 新宿、池袋、大手町など、東京のビジネス街で被写体を探し、これはという顔を見かけたら許可を取って写真を撮る、という企画だったと思う。被写体は、背広を着たサラリーマン。たしか篠山紀信が週刊朝日で「女子大生特集」をやっていたころで、アラーキーはサラリーマンというカテゴリーで男たちを撮っていたようだ。その中で、アラーキーがファインダーを覗きながら言ったというセリフ、

「丸の内の人はいい顔してるね。サラリーマンとしてピュアだな」

というのが、非常に印象に残った。アラーキーに「いい顔」と褒められるということは最大級の賛辞といってよく、人生観や感情の動きが嘘偽りなく顔に表現されているということで、しかも、電通の広告部を蹴って辞めたアラーキーが「サラリーマンとしてピュア」という最最大級の賛辞を彼らに贈る。サラリーマンを「アホらしい」と辞めた芸術家が、それはそれとして、美しいサラリーマンを見つけることができ、ピュアにほめたたえることができる。
 一流の男だから、一流の男たちを路上で、ぶっつけ本番で見つけられるのだろう。

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東京が世界を動かしていたころの丸の内

ちなみに、冒頭で述べた「地球の歩き方」の事務所は大手町にあり、私は打ち合わせのたび、地下鉄からそのまま入れるプロントに座って資料をめくるのが好きだった。場所はまさに丸の内のど真ん中、背広を着た「丸の内のサラリーマン」が静かに談笑したり、珈琲を飲んでいたりする。プロントはチェーン店だからどこにでもあるが、丸の内の「プロント」は全く違った。それは客の作り出す力だろう。まるでサロンのような落ち着き、流れるBGMの静けさ。彼らの背筋の伸び方、佇まい、上等の背広、そして同僚だろうに敬語を使っての語らい。アラーキーのいう「サラリーマンとしてピュア」というのは、そういうことだったのだと思う。まだ何者でもない学生や、その日暮らしのアーティスト、プータローには、絶対に出せない雰囲気がある。なぜかヨーロッパは背広を着ている人はうらぶれた感じの方が多く(国により違うかもしれないが)、ピュアなサラリーマンというのは東京に突出している。プロントにいると背筋が自然と伸び、落ち着いて打ち合わせに出向くことができた。本当に普通のファストフードなのにね。声が腹から出ていて、それでいて静か。あの気持ちのいい響きを忘れることはないだろう。

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勤め人の憩い、プロント

失われた品格

それから十年は経っている。東京オリンピック前、またまた打ち合わせで新宿の歩道橋を上っているとき、あのプロントのような声を聞いた。懐かしく、つい耳をそばだててしまった。スマホでしゃべっているようだが、折り目正しい背広が目の前に浮かんでくるような響きのよい声と、正確な敬語。相手への気遣いが自然と伝わってきて、心があたたかくなるような話しぶり。真冬の昼に、アラーキーのいった、「ピュアなサラリーマン」を思い出し、リーマンショック以降海外旅行ブームが去って「地球の歩き方」からも離れたから、ああ丸の内にもしばらく行っていないなと目をあげた。あの男たちのような姿を新宿でかいまみる「このとき」を期待して。

ところが目に入ったのは、かかとがすりきれて透明になりかけたほどの靴、真っ黒な裸足。冬の木枯らしが吹いているというのに。間違いかと思ったが、スマホで礼儀正しく話しているのは、まぎれもないその人自身。さらに顔をあげると、ぼろぼろのジージャンが目に入った。何日も洗っていないような髪。それで驚くほど品のいい喋り方をしながら歩き続ける。どうやらスマホで日雇い派遣の仕事を請け負っているようで、先方からスマホに連絡が入り、急いで折り返し電話をかけた……というところらしい。かしこまりました、ありがとうございます。これからうかがいます……媚びていない、それでいて礼儀正しい話し方。

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それから似たようなことがちょくちょくあった。スマホで仕事を請け負う人々の声は街を歩いていて自然に耳が入る。おそらく、それなりの人でなければ、非正規でも仕事が来ないような時代になっているのだろう。交わす彼らの言葉はきちんとしていて、たぶん20年前なら丸の内を闊歩しアラーキーに声をかけられていたような人々なのだ。

 大学を出ても就職できない、フリーターにしかなれないのは「自己責任」だと多くの人は言う。しかし私には、彼らに何かの責任があるようにはどうしても思えない。

 リストラの嵐はコロナ禍でなお吹き続ける。プロントにいた紳士たちは今頃どうしているだろう。私が子供のころ銀座で見た、ステッキとカシミヤのコートで並木道を歩く見事な熟年にはなっていないかもしれない。それは誰の責任なのだろう。金で買うには買えない、何か大切なものを日本は失ってしまったのかしれないと思う。

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和光のビルもリニューアルされる


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