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書くことのつながり

きのう#NOTEに初めてアップしたところ、スキ というリアクションをいただいた。しかも「読者の心に届いてます!」という嬉しいPOPつき。ふだん雑誌に書いていて、読者の反応などほとんど見えないところにいるため、はっとした。
何を書いてもウンともスンとも反応がなく、編集者が(まあ、仕事だから)褒めてくれるだけ……という活字媒体で始まった身には、「いいね」「スキ」の反応があって当たり前、というSNSネイティブに育つ人の身が今いち信じられないところがある。向こうからしたら、何の反応もないのによく書けるね? ということかもしれないけど。

反応があるとしたら、読者からの手紙だった。初めて書いた小説に読者が寄せてくれた葉書を今も大切に取ってある。主人公のかわいい似顔絵つき。私も小学生のとき、大好きな漫画家にファンレター送ったよ! なんと直筆で返事が届いた。それも宝物。なぜそんなにも「発表」と「交流」が貴重だったかというと、出版があまりにも限られた人々のものだったからだろう。自費出版を検索した方ならご存じだろうが、本を出すには、とにかく紙とインクと製本技術が要る。さらに流通ルートに乗せるとなると、卸しの会社を通すため、倉庫に保管してもらわなければならず、紙が湿気らないよう絶妙な温度調節をしてくれる専門倉庫だから保管料が高いのなんのって。そこから書店の注文があれば、トラックで輸送される。運送費なんだかんだと、出版には、単行本なら300万円くらいかかる。

そんな高価なもの、おいそれと出すわけにはいかないから、出版社は、様々なコンテストを配して選んだ人々の原稿だけ活字にした。同人誌から頒布されて流通ルートに乗った時代はたぶん高度成長期で終わり、1970年代以降は、みなコンテストで入賞なり金賞なり獲って「デビュー」され、しばらく雑誌に掲載された後、それがまとまって本になり、書店に並んで、ようやく認知された方々だったと思う。そうして文庫になり、誰もが手軽に手に取れるようになるまで、10年。

気 が 遠 く な る が な。

今は、書いたら次の瞬間世界中に届けられる。考えてみれば芸能界も同じで、自分の表現が電波に乗るのは大変なこと、どれほど多くの少年少女がオーディションや歌番組に挑戦しただろう。今は録画をアップするまでもなく、ライブで世界中に歌やダンスや演奏を届けられる。ジャンル分けして届けてくれる、#NOTEやTikTokのようなプラットフォームも充実してきた。

誰もが発信者になり鑑賞者になれる今の時代がいいのか、それともごく一部のプロの目を通って精選された作品のみが書店やテレビに漂っていた時代がいいのか、世界はまだジャッジを待たなければならないだろう。ただ、言えることは、プロデューサーのような仲介業者が要らなくなったことで、出版界は数百人単位のリストラを始めている。音楽業界なども似たようなものかもしれない。

売れすぎてお札を刷っているようなものでした

知り合いの編集者はファッション雑誌にいて、もう十年以上前のことになるが、「本を刷るのはお札を刷るようなもの」と豪語していた。それほどファッション雑誌が売れたのである。今なら誰のコーディネートも#OOTDで一発なのに。似た服が着たいと思えばインスタの画像検索で一発、買いたいならZOZOでもメルカリでも予算に応じて探せて自宅に届く。

すべての仲介がすっぱぬかれ、中抜きになった状態で出版社はリストラを始め、彼は早いところ波に乗って、数千万の退職金を手にした。出版社も、「お札を刷っていた」くらいだから、それだけの金を早期退職者に用意する余裕があったのである。中央線に住み、新宿のゴールデン街で飲むのを趣味とし、扶持はあるだろうに服に頓着せず、もしかして高価だったかもしれないけれどスーツはしわくちゃ、長髪という、いかにも昔の編集者という風情だった。彼がさっさとウェブに鞍替えするとも思えず、まあ、マンションのローンも払い終わったということだし、これから婚活でもするのだろうと仲間内では思われていたのである。それに働かなくても困らないくらいの資産は持ったはずだから、と。

だが、ある日、いつもの文芸系の集まりに来ず、どうしたんだろうと思っていたら、お腹が痛いとかで欠席、それから体調を崩して入院して、二週間後には亡くなった。あまりのことで、お葬式にも行けなかった。少しして、この状況を聞いたのである。ほとんどの人が、見舞いや何やに行く余裕もなかったらしい。病名はわからない。

東日本大震災から数年後のことで、雑誌や小説は、今よりはかろうじて売れていた。あの震災をきっかけに、日本ではツイッターはじめSNSが広く認知されていくことになるのだが、編集者氏はその時代に届くか届かないかのところでこの世におさらばしたことになる。

もし彼が生きていたら、何をしていただろう。おそらく、かつての活字メディア人は、ある人はウェブに鞍替え、ある人は活字で引き続き活躍、ある人は別業界に転職……というモザイクのような状態になっていると思うが、彼がそこのどこに配置していたかのイメージがどうしても湧かない。紙とペンとゲラとワンセットの人だったから。

コロナ渦で紙やインクが高騰し紙の出版がますます非現実になっていく現代を彼は知らない。知る必要はなかった。四十代で、世間一般からすれば早世ではあったが、彼は彼なりに活字の時代をまっとうして、駆け抜けていったと思いたい。




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