短編『輝きを失う「前」に』最終話(全3話 約13600字)
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(最終話 約4600字)
二人が部屋に戻るとすぐに、仲居が部屋にやってきて夕食の準備が始まる。テーブルからはみ出しそうなほど料理をせっせと並べている。
仲居は、ユキヒトがこの世界に「落ちてきた」際に、宴会場で会った女性だった。女性はユキヒトに気づき、にっこりと会釈したが、驚いたユキヒトは気まずそうに目を逸らした。
一人用の小鍋をコトンと置き、青色の固形燃料に火を入れる。
仲居は最後に、食前酒として果実の入った梅酒を勧めてくる。
「ユキヒトってお酒飲める?」
「飲めます。俺は一年浪人しててハタチ過ぎてますし」
「よっしゃ。なら飲もう!」
「それでは、ごゆっくりお召し上がりください」
仲居は正座のまま深々と頭を下げ、スルスルと畳の部屋を後にする。
二人は仲居に礼を言い、梅酒の細いグラスを手に取る。
「じゃあ、俺らが生まれる前の世界に」
「「乾杯」」
軽くグラス同士を鳴らし、口をつける。芳醇な梅の酸味とほのかなシロップの甘味が感じられる。
テーブルには色とりどりの盛り合わせが並んでいる。真鯛の刺身、柚子の香りが漂う和え物、軽く炙った季節の野菜が一口サイズに揃えられている。咀嚼するたび、素材の味が口の中に広がる。
「なんていうか……すごい繊細な味わいっすね」
「普段こういうの食べないけど、美味いな。『美味い』って表現が陳腐に思えるくらいに」
固形燃料が燃える小鍋の蓋を開けると、胡椒の香りの湯気とともに黒毛和牛のステーキが顔を出す。口の中に入れた瞬間、溢れる肉汁が広がり、噛むほどに牛肉の旨味が深まっていく。二人は三杯の白米を平らげていた。
「幸せなんてレベルじゃないな……」
夕食を心ゆくまで味わった二人は、しばし畳の上に転がっている。ぼやぼやと天井を見ながら大きな欠伸をする。
「なぁ……そろそろ行くか」
「そうっすね」
二人が向かう先は、もちろん大浴場だった。
ハルキは「よしっ」と立ち上がり、部屋の隅に置かれたフカフカのタオルを手にとって部屋を出る。ユキヒトもそれに倣う。
ペタペタとスリッパを鳴らしながら絨毯を歩き、最上階の大浴場へと向かう。エレベーターの染み付いたヤニの匂いすら懐かしさを感じさせる。
「殿方」と書かれた紺色の暖簾をくぐってスリッパを脱ぎ、ラタンの床を踏みしめていく。
更衣室には、子供の体をバスタオルで包むように拭く父親、牛乳を一気飲みする男たちと、今と変わらない光景があった。
籐で編まれたカゴに浴衣と下着を入れ、少し湿った引き戸を開けると、シャンプーや温泉の香りを纏った湯気が顔を覆った。
子どもたちの声が反響し、湯気の向こうに長方形の浴槽が見える。
二人は手短に頭と体を洗うと、湯船にゆっくりと身を沈めた。待ちに待った瞬間だった。
「うわ……最高」
「やばいっすね……」
二人は恍惚とした表情で湯に浸かり、足を伸ばす。しばし言葉を交わすこともなく、ただ湯面を見つめる。
「よし。露天風呂入ろうぜ」
二人は同時に立ち上がると、濡れたガラスの引き戸を開け、外に出る。
山からの涼しい風を顔に感じる。
石畳に足跡をつけて二人は歩く。
岩風呂からは、煙のような湯気が立ちのぼっている。
二人は露天風呂にゆっくりと足を入れ、腰を下ろす。
「はああ……」
「あー、これはダメだ……」
再度、二人は情けない声を漏らす。
はしゃぐ子供たちと、それを止めようとする父親の姿を、二人は微笑ましく眺めていた。
しばらくして二人は岩風呂から出て、ベンチに腰掛ける。
見上げると満天の星空。
「東京の空とは全然違いますね……」
「あぁ……しかも三十四年前の星空だ。俺らが生まれてくるずっと前の空なんだぜ?」
全く気の遠くなりそうな話だ。心地よい風に包まれながら、自分が今どこにいるのかわからなくなっていた。
部屋に戻ると、布団が敷かれている。
二人とも、これ以上ないほど疲れ果てていた。時刻はまだ二十一時過ぎだが、瞼を開けていることができない。
「寝るか。もう帰ろう。令和の世界に」
「はい。ちょっと名残惜しいですけどね……」
「だよな。でも限界」
二人はすぐに眠りに落ちた。どこか遠くに行ってしまいそうな感覚に身を任せていた。
「ユキヒト! おい! ユキヒト!」
「……っ!」
――朝だった。
後頭部にはふかふかの枕、全身に掛け布団の重みを感じる。
「あれ? 俺たち……」
ユキヒトは目をこすりながら言う。
「ああ……まだ帰れていない」
二人の間に沈黙が流れ、ユキヒトの額に脂汗が滲んでくる。
「えっ、どうして……」
「……わからない」
ハルキは見たことないほどに動揺している。
「俺ら楽しみましたよね?」
「ああ。不足なんかないはずだ」
「……やっぱり、まだ何か帰るための条件を満たせていないんじゃ……」
再び部屋の中に静寂が訪れる。
それも束の間、扉をコンコンと叩く音に続いて、女性の声が聞こえてくる。
「失礼いたします。朝食のご準備ができました。レストランにどうぞ」
その声に、ユキヒトに少しだけ笑顔が戻る。
「……もしかして、朝食を楽しめば元の世界に戻れるとかですかね?」
ハルキはそれには答えなかった。
二人は何も話さず、レストランへ向かう。スリッパを引きずる音がやけに大きく聞こえる。
朝食はビュッフェ形式で、レストランには昨日の夕食に負けず劣らずバリエーション豊かな料理が並んでいた。
ハルキは主食にパンを選び、スクランブルエッグにケチャップをかけ、ベーコンとウインナーをいくつかプレートに乗せた。
ユキヒトは茶碗に白米をよそい、温泉卵、きんぴらごぼうの小鉢、鯖の塩焼き、納豆と焼き海苔を取る。
「いただきます……」
食べ始めた二人のテーブルには、ただカチャカチャと食器同士の当たる音だけが響いていた。
朝食を終えた二人は、静かに部屋に戻る。布団は片付けられ、テーブルの上に和菓子とパックの緑茶が置かれている。
「まだ帰れなさそうだ」という予感があった。
カーテンを開けると、見事な紅葉の景色が広がっており、鈴虫の声もいくらか心を落ち着かせてくれる。
ユキヒトが窓を開け、山の空気を吸うために外に出ようとすると、見えない壁に跳ね返されて尻もちをついた。
「あっ、そうか」
ユキヒトは気の抜けた声を出す。
「ん? ああ、外に出られないんだよな」
ハルキも事情を知っているようだった。
その後、二人は特に話すこともなく、館内をぶらついたり、部屋でゴロゴロしたりして過ごした。昼食は朝と同じレストランだった。
ゲームコーナーにも足を踏み入れたが、誰にも会うことはなかった。午後の光がだんだんと陰り、夕暮れが近づいてきたが、二人の間にはまだ重たい沈黙が続いていた。
「そろそろ夕食だな」
昨日と同じく、豪華な夕食だ。綺麗に盛り付けられた前菜、香り豊かなビーフシチューが並ぶ。
二人は淡々と箸を動かし続けた。一口、また一口と淡々と食べ進め、皿が空いていく。
「なんていうか……旅行でも何でもそうですけど、『帰れる場所があるから楽しめるんだな』って思いました」
ユキヒトは窓の外に顔を向けながら話す。
「ははは……本当にそうだな」
食後、二人はしばらく畳の上に寝転がりながら、天井を見たり目を瞑って十五分ほど眠ったりした後、示し合わせたように同じタイミングで風呂へと向かう。
廊下を歩いていると
「お兄ちゃん!」
声をかけられ、ハッとする。
前の日に、ゲームセンターでぬいぐるみを取ってやった子供だった。
久しぶりに、二人に笑顔が戻る。
「おう! 楽しんでるか?」
「お前はどうなんだ?」と自分自身に問いたくなる状況に自嘲しながら、ハルキは問いかける。
「うん! 昨日はありがとう!」
「あっ! 昨日は本当にありがとうございました!」
子供の後ろから、その母親が声をかけてくる。父親もその様子を見守っている。話によると、この父親が勤めている会社での社員旅行に、家族同伴で満喫中なのだという。
「もしよければ一緒に一杯、いかがです?」
父親は少し顔を赤らめており、宴会場を指差している。
二人は顔を見合わせ、同時に頷く。
「では……お言葉に甘えて」
ハルキは照れくさそうに言う。
父親は大変嬉しそうに、母親は少し申し訳なさそうに、宴会場に入っていく。
ガヤガヤした部屋の向こうから
「いいよいいよ! 二人でも十人でも連れてきな!」という一際通る声が聞こえてくる。
父親は満面の笑みで「どうぞどうぞ!」と襖を開けて声をかけてくる。
二人は緊張しながら「こんばんはー」と頭を下げて入っていく。
入った瞬間、充満した煙草の匂いにユキヒトは思わず咳き込んだ。
宴会場は賑やかな笑い声で満ちていた。
部屋の奥のステージには「歓迎 株式会社木丸製作所 御一行様」と書かれた大きな幕が堂々と掲げられている。
「よくぞ来てくれました!」
父親が杯を差し出し、二人はそれを両手で受け取った。
「かんぱーい!」
勢いよく声があがり乾杯をする。初めは肩に力が入っていた二人も、酒が進むにつれて自然と体がほぐれていき、口数も多くなっていく。
「兄ちゃんたちは大学生なんだ。賢いなあ。どこの大学?」
「赤海学院大学です」
ユキヒトが答えると、今まで和気あいあいと酔っぱらっていた社員たちは目の色を変えた。
「ええ! すごい! 赤学だって!」
「ぜひ! ぜひウチの会社に来てください!」
子供の両親も、口を開けて顔を見合わせている。
その勢いに肩を縮こまらせたユキヒトに、ハルキはそっと耳打ちをする。
「『俺らが生きてる時代』と大学の価値が違うんだよ」
宴会での話題は、最近グランドイカ天キングになったヤンチャな三人組の話から、新しいセルシオ、二年前のラストギグス、理想のボディコンと、次々移り変わっていく。近鉄とダイエーは何かで戦っているようだ。
ユキヒトは聞き慣れない言葉ばかりで戸惑っていたが、ハルキは興味津々で話に入っていく。
やがて、社長がステージに上がる。カラオケが始まるらしい。
曲は北島三郎の『まつり』だ。
大きな拍手と歓声が轟く中、わざとらしく深々と頭を下げて歌い出す。抑揚ある歌声と力強くパワフルなこぶしに、二人は引き込まれていた。
すっかりできあがった二人も、社員たちと肩を組んで共に盛り上がる。
気づけば、心の中の重しが取れたように軽くなっていた。
「これが日本の祭りだよ」
社長の歌声から、平成初期の熱狂を肌に感じる。
そう遠くない未来に、長い長い不況が来ることは「歴史」で勉強していた。
しかし、この人たちの目の輝きを見て、自分たちまでも元気を分けてもらえた気がした。
「間違いない。これだ。水上グランドホテルは、これをもう一度誰かに味わってもらいたかったんだ……!」
ハルキは満足げに微笑み、胸の内で静かにそう確信した。二人の心には深い充足感が広がっている。
「最高でしたね……これは確かに忘れられない思い出だ」
ユキヒトもじんわりと汗をかき、満足そうに頷く。
こうして二人は床につく。
「……あの子、元気に育ってくれるといいですね」
「おいおい、『あの子』って、俺らよりずっと先輩なんだぞ?」
「……あっ、確かに。なんか不思議。ハハハ……」
笑い声が畳の部屋に小さく響き、夜の静けさに溶けていった。
二人は、どちらからともなく夢の世界へ落ちていった。
輝かしい思い出たちは泡沫のように消え、そこには無機質なビルディングがただ静かに佇んでいた。
了
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