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坂口安吾 『長島の死』 ☆9 人は自分の追悼集を読めない

四十九日の法要に参列した。喪服はいつもわたしに奇妙な焦燥と嫌悪を与えてくれる。コロナのために長らく顔を見ていなかったし,通夜も参加できなかったから,この四十九日がある意味,最初で最後の対面だった。遺影の顔は記憶より少し細いような気がする。掛け軸の文字はどれも読めない。住職は教科書でもめくるような手付きで経本を読みすすめ,わたしは汗で滑る数珠を手のひらで転がしながら,ろうそくの揺れる火を見つめていた。ここは都心の一角にある小さな寺で,ときおり背後から響く車の走行音が,非日常な空気を破った。わたしは泣かなかった。

追悼文を書かねばならないのだが,どうにも気が進まず,こうして前段階的な文章を書いている。あるのは思い出の端書きばかり,どうしても書ききることができない。悲しいとか,涙が出るというのではなく,ただひたすらに気が進まないのだ。わたしは冷たい人間だから,二ヶ月を過ぎた今でも,死の責任と重圧から目を背けつづけている。

法要やお斎が残された者のために為されるのと同様,追悼文もまた,生者が死者に抱く思いを完了させるためにある。文字に留めなければ,思い出はただ消えていくばかりで,そのうち失ったという事実さえ失ってしまうような,二階の喪失感だけが残る。わたしは死者でなく自分のために,そして残された者たち全てのために,死を悼む文章を書く必要がある。

一方で,そう割り切れない自分もいる。優れた追悼文を読むと,死だけでなく生前の人生すべてが飾られ,輝くように思えるし,こんな文章をもらって死者もさぞ幸せだろう,と,柄にもないことを考えてしまう。『長島の死』は,まさにその意味で,世に最もすぐれた追悼文のひとつである。

彼の死が不幸であるか幸福であるかは、今私にはとても断定はできない。

締めの一節からも明らかなように,『長島の死』は真に死者を思って書かれた文章だ。安吾は,終始,死者たる長島の視点に立ってその生と死を捉えようとしている。彼の死が悲しいとかさみしいとか,そうした表現は一切登場しない。

書くべきなのは長島の人生であり,文章の主役は紛れもなく彼なのだから,安吾の人生における長島の意味付け,などと無粋なことはしない。それは,安吾が白昼の蟇であるというよりむしろ,文字に起こさずとも「陰となり流れとなって書き尽されずには有り得ない」からである。

時々泣きぬれたりしたが、決して本気で泣ききれたり笑いきれたりする男ではなかった。常に自分自身に舌を出しているところの、も一人の自分を感じつづけているところの宿命的な孤独人であった。世に最も悲しく、最も切ないところの宿命の孤独人であったのである。

のちに『文学のふるさと』で「生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独」に言及した安吾だが,おそらくその着想は,孤独の体現者である長島に由来するのだと思う。

人は本質的に孤独だが,ほとんどの人は四六時中それと格闘するわけではなく,覆い隠すよう築いたモラルの山で遊ぶことができる。孤独がふるさとであるとは,裏を返せば,普段はそこから遠く離れた異郷にいる,ということでもある。

長島は違う。彼はつねに追い詰められ,絶叫し,返事のない空間にまた追い詰められた。孤独への絶望を隠せず,といって絶望に全身浸って泣き切ることもできなかった。安吾が『文学のふるさと』を書くにあたって,人間本来の孤独と絶望をむき出しにした存在である長島の影響はきわめて大きいと思う。

宿命的な孤独人を自称するつもりはないが,わたしも長島同様,自分に舌を出しつづけている。同時に見えない誰かを相手に演技している。
小学生のとき,修学旅行から戻り,世話を忘れるうちに虫かごのクワガタは死んでいた。硬い外骨格と鋭い牙はそのままに,柔らかい中身はすべて蛆虫に食い荒らされ,腐葉土特有の臭いと相まって小さな地獄が成立していた。すぐに捨ててしまいたかったが,わたしは一度虫かごを置き,少し呆然としてみた。周囲には誰もおらず,親への言い訳と処理の方法しか頭にないのに,ただなんとなく,死を悼み自分の不精を後悔するポーズを取ったほうがいいような気がした。一度慣れた臭いがふたたび気になりだしたころ,重ねた新聞紙で死骸を土ごと包み,ごみ袋へ捨てた。

以来,わたしは本気で泣き切ることができない。飼い猫が死んだとき,わたしの半分が涙を流す一方,もう半分は奇妙な安堵と高揚に支配されていた。猫だけではない,祖父や友人が消えるたび,死によって自分の人生が彩られるような気さえした。喪服は焦燥と嫌悪に加え,自分が世界の中心であるという錯覚ももたらした。誰かの死を思って頬を濡らすたび,もう一人の自分がせせら笑っている。本当は大して悲しくないんだろう。単なるいちイベントくらいに考えているくせに。お前に泣く権利はない,と笑っている。いや,あるいは全てが逆で,自分が死を愉しんでいる間,せめて涙くらい流せと,もう一人が諭してくれているのかもしれない。クワガタの件と合致するのはむしろこちらだ。わたしは宿命的な孤独人ではなく,卑怯な舞台役者である。

どちらが本心なのか,それを考えても仕方がない。真に迫った役者の涙は演技と本心の区別がつかないのと同じように,素顔と仮面,本音と建前の対立は堅牢ではなく,どちらにも転じうる。境界を探しても大したものは得られない。

わたしは殴ってほしかった。昼も夜も責任を糾弾してほしかった。そうすればわたしは悩みに悩み,演技と本心の境を探る余裕はなく,こんな文章を書くこともなかったろう。

しかし現実は,皆がわたしを許してくれる。たとえ許していなくとも,口に出すことはしない。友人も,親も,ご遺族も,誰もわたしに十字架を背負わせようとしない。むしろよくやっていると褒めてくれる。こうなると,十字架を背負いたがる自分と,十字架を誇らしげに掲げる自分とが現れる。もうひとりの自分を切り離す,客観視するという名目で,こんな文章を書く余裕も生まれる。

結局こうなってしまった。死者を悼むはずの場で,自分の話ばかりするのがわたしだ。安吾にも長島にもなれない。わたしが死んだとき,追悼集には表層的な言葉ばかりが並ぶことだろう。そうしてわたしは死後に復讐される。自分の追悼集を読めないこと,それはある人にとって不幸だが,わたしにとってはきっと幸福である。





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