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映画 『ホムンクルス』 ☆3 原作オタクの戯言

ひどかった。カップルが「右目隠して帰らないとね〜笑」ときゃいきゃい言いながら立ち去るのを横目に,ひとり爆速で映画への怒りをメモ帳に打ち込んでいた。これが本当のバケモン,オタクの成れの果て。片目を隠すまでもなく,自分のキモさが身にしみる。

多くの人は原作未読のまま映画館へ足を運んでいる。数少ない原作の読者も,原作はいろいろと問題が──長期休載,キモすぎる作風,作者がクスリで捕まったという真偽不明の噂──あるので,最後まできちんと読みきった人は少ないようだ。映画鑑賞以降,「ホムンクルス」という文字列を含むツイートは全て確認しているので間違いない。オタクの本気,伝わりました?

本作は原作からの改変がかなり多い。けれども原作を知らずに派生品を観る楽しみは当然あるし,15巻もあるキモい漫画の読破を強いるのは心苦しい。それに映画版だって原作と独立した作品として観られる権利がある。ぶっちゃけ,よく頑張って二時間にまとめたね,とも思う。二回観たら態度が丸くなった。

しかしそれでも,表現の豊かさ,問いへの真摯さにおいて,映画は原作に遠く及ばない。映画が面白かった人,原作はもっと面白い。映画がつまらなかった人,原作は面白い。キモいし綾野剛も出てこないが,それでも面白い。

本記事では,原作と映画を対比しつつ,両者の解説を試みる。山本英夫が作品の中でなにを問うてきたのか,なぜ映画は原作にまったく及ばないと言い切れるのか,それも読めば少しずつわかるようにしてある。例によって長大な文章となったが,所詮は原作オタクの戯言,ご容赦願いたい。

なお,本記事は原作/映画/ノベライズすべてのネタバレを含む。

↑ついでに『殺し屋1』の記事はこちら。


良かったところ

先に褒めておくと,原作の根幹を成すモチーフである〈〉を意図的に反復しているのは良い。頭蓋に空いた円形の穴,その向こうに映る伊藤の眼,現れる「ホムンクルス」の文字──この冒頭には本当にワクワクした。

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このロリコンどもめ!

このとき観客の視点は穴の手前,つまり脳ミソのあたりにある。脳の中の小人=ホムンクルスをのぞく伊藤と,それをのぞき返す観客との視線が交差する演出,これはなかなかオシャレだ。深淵をのぞくとき,深淵も云々。

〈円〉は満月や瞳といった原作にあるものに留まらず,俯瞰で撮られる螺旋階段や金魚鉢,名越のマンションのロータリー,そして金環日食,と豊かな広がりを見せる。それから伊藤の部屋に飾られた曼荼羅は梵語で「丸いもの」を意味するそうで,美術担当が意図的に組み込んだらしい。

円は瞳のイメージと重なって,山本英夫の最も重要なテーマである〈見る〉行為と結びつく。そして〈見る〉ことからあらゆる人間関係は始まる。

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(10巻より)

さらに言えば,冒頭で受動的な〈見られる〉行為を想起させた円形の穴は,金環日食の導入によって〈見る〉ものに変わる。〈見られる〉でも〈見つめ合う〉でもなく,名越とナナコという二人の人間が同じ方向を〈見る〉ことの象徴として,金環日食が使われたわけだ。オシャレである。

のっけから抽象的な記述を繰り返したが,原作は終始そういう話である。たとえば作品の冒頭では夜空に三日月が浮かんでいたのに,トレパネーション後はとつぜん満月になっている,とか。挙げるとキリがない。

それから役者陣の演技はどれもよかった。綾野剛と成田凌,主役ふたりの演技力はとりわけ見事で,その意味に限れば本作は漫画の実写化として優れていた。

綾野剛のバキバキボディには素直に感動したが,しかし冷静に考えるとカーホームレスがあの肉体を維持するのは不可能だろう。単なるファンサービスの一貫として必然性のない裸体が晒されただけでは? それとも,乳首も〈円〉の象徴なのか。


ホムンクルスとはなんだ

はじめに組長編の内容をおさらいしつつ,ホムンクルスの設定において重要な部分を確認しよう。

内野聖陽演じるヤクザの組長は人の指をウキウキで詰めようとするコワイおじさんだが,この歪んだ趣味は実のところ,幼いころに不意の事故で友達の小指を切り落としてしまったトラウマからくる反動であった。彼は人の小指をいじめまくり,「自分は人を傷つけるのが好きなのだ」と思い込むことで,逆説的に罪悪感から目を背けたわけだ。しかし組長は名越とふれあい,罪悪感とふたたび対峙する。涙を垂れる。ボロボロ垂れる。数十年も抑え込んできた謝罪の言葉を述べる。こうして彼は救われる。

なにより重要なのは,名越も罪悪感を抱えている点だ。名越はトラウマを共有する相手のホムンクルスを見ることができる。無意識に沈んだ記憶や体験を呼び起こし,相手を過去から解放できる。けれどもそれは所詮,名越と同じトラウマを抱えている相手にしか発揮されないし,その意味で名越はエゴイスティックな救済しかできない。

繰り返すが,この設定はきわめて重要だ。作品のすべてと言っていい。
ひとつに,他者理解が必ずエゴと結びつく。名越が他者を〈見る〉のは無償の愛をばらまくためではなく,あくまで自分を発見するため,自分を救うためだ。
そしてこれは,名越がとくべつ自己中心的だからではない。原作で伊藤が「単純な副作用」と語るとおり,人間一般がそうなのだ。人間は究極的には利己主義でしかありえない。普段この事実は道徳とか美学とかいう価値転覆的な概念によって透明化されているのだけれど,名越には救済という報酬が明示的に与えられているため,かえってエゴを強く自覚せざるをえない。

もうひとつ,ホムンクルスが名越自身の投影に過ぎないなら,むしろ投影によって不可視化される領域がある。だって,他人と自分なんて違う部分のほうが多いんだから。たしかに組長は幼少期のトラウマに強く規定されていたのだろうが,トラウマがひとつきりなワケがない。名越が組長をロボットやカマのイメージで捉えるとき,彼をかたちづくる他のイメージ──趣味でも人間関係でもなんでもいい──は,すべて不可視化される。ホムンクルスを〈見る〉ことによってむしろ見えなくなる要素がある。ちょうど,言語化による切り分けが必ずなにかを捨象するように。

〈見る〉行為に不可避につきまとうエゴと捨象。あるいは,人間関係へ必然的に割り込んでくる自己愛。『殺し屋1』の記事でも書いたとおり,これこそ山本英夫がくりかえし問い続けてきたテーマである。わたしたちは自分というフィルターを通さずに他者を理解することはできない。


ムキムキ凄腕カウンセラー名越

映画では,エゴや捨象の問題はまとめて現実─虚構の二項対立へと変奏され,代わりにエゴは伊藤にすべて押し付けられた。試みは伝わった。しかし,これは失敗だ。

映画の名越は記憶喪失であり,チヒロを恋人と勘違いして「君の名前はナナコだよ」と名前を押しつける場面がある。チヒロも記憶喪失なので,あらそうなのネと信じてキスしてセックスする。成田凌は彼らのニセモノの幸福を嗤い,やっぱり世界なんて全部虚構ですよとうそぶく。

名前の押しつけは原作を踏襲しているが,その意味づけはかなり異なる。
原作の名越が「俺を見ろ」とか「オレがみんなを守るから,誰かオレを守ってくれ……」といったエゴに駆動されていたのに対し,映画ではむしろ現実の虚構性に焦点が当てられる。その人,ナナコじゃなくてチヒロだよ(笑)。お幸せそうなところ悪いけど(笑)。やっぱみんな見たいものを見てるだけじゃん,嘘っぱちだらけの世界でさ。成田凌が冒頭で「否定したいんです」「この眼の前の世界を」と語るのは,現実の虚構性を暴きたいがためだ。

名越のエゴは綺麗サッパリ脱色されており,綾野剛は最後まで凄腕カウンセラーのままだ。名前の押しつけは記憶喪失ゆえの勘違いに過ぎず,種明かし後も反省するどころか,むしろオンオン泣いているチヒロを救済する側に回ってしまう。マジでいい人。

代わりにエゴの犠牲になるのは伊藤である。見られたいばかりで他人を見ようとしない伊藤は,Dr. 名越のありがたいお言葉も響かず,最後にはセルフトレパネーションをやらかしてしまう。原作の名越がたどった末路を成田凌が代理でなぞり,おかげで綾野剛はヒーローのまま幕を閉じる。

この改変が本当によくないのは,エゴが単なる伊藤個人の性格に還元されている点だ。成田凌が堕ちたのはただ彼がエゴを克服できなかったからである。この時点でもはや問いから普遍性が失われている。
何度もいうが,エゴは〈見る〉行為に不可避につきまとう。だから本当に問われねばならないのは,名越がエゴとどう向き合うのか,伊藤の「他人に自分を重ねて酔ってるだけじゃないですか」という問いかけにどう答えるのか,そこなのだ。名越は「お前はそんなに必死になって,俺のなにを否定したい……」と諭したが,これはなんの解答にもなっていない。質問を質問で返すな。伊藤をバカにしたところで名越の問題は解決しない。

思うに,名越が記憶喪失にされたのは,エゴの問題を綾野剛から切り離すためではないか? 全然知らない女を勝手に(元)カノと勘違いするとかいうヤバい構造から毒気を抜くため,名越を最後までヒーローに据えたまま話を終えるため,記憶喪失を持ち出したのではないか。

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(3巻より)

エゴからの逃避は演出上の違いにも現れている。画像からわかるように,原作ではホムンクルス=名越自身という設定はかなり劇的に描かれ,後々の不穏な展開を既に暗示している。

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(15巻より)

ホムンクルスの転移についても同様だ。原作でこれほど明示的に示されたエゴの表出という要素は,映画ではまったく登場しない。おまけに名越がとんでもないセリフを吐いて作品をシメるので驚いた。いわく,俺もお前も見てほしいばかりで,相手をちゃんと見ようとしなかった。相手を見れば,そこに世界ができる──いや,なんだそりゃ。なんの答えにもなっていない。
そんな安っぽいクリシェで回収できる段階はとうに,それこそ初期作『おカマ白書』の時点で終わっている。ちゃんと見るとはなんなのか? 目の前にできる世界は既に自己というフィルターを通している,これをどう克服するのか? なぜ名越は「空っぽ」な自己を脱出して他者を受容できたのか? 名越がチヒロを〈見る〉とき,本当にちゃんと見ていると言えるのか? 問われねばならないのはそこなのだ。

残念ながら,映画は原作のスタートラインにすら立っていない。原作もこの問いにわかりやすい回答は与えていないが,わたしの解釈では,伊藤のエピソードをたどると答えの糸口がつかめる。これはもう少し後に回す。


JKレイプ問題

石井杏奈演じる女子高生・1775(以降,JK)は,ものすごく単純化すると,名越に犯されて救われる。いや,実際はちょっと違うのだが,そう受け取られてもおかしくない。コンプラ的にもマズいのでは? 実際に「レイプで救うとかオッサンの妄想キツすぎ」なんて感想も散見される。

JKは口では名越を拒絶するが,実のところ情事に発展するのを望んでいる。「アナタとひとつになると……すべてが本物になる」だの「ワタシがひとつになる」だの奇妙なポエムをインスタに書き溜めているが,要は過干渉かつ潔癖な母親とマニュアル的な生を強いる社会への反抗心からセックスを神秘化してしまっている。当然,JKは処女だ。

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マグリットを思わせる(5巻より)

それ自体はこのとおり原作に準拠している。JKは名越を歪んだ欲望の材料とする。一方的に妄想を投影する。『殺し屋1』の読者ならおわかりのとおり,この妄想の投影をきわめて暴力的な営みとして描くのが山本英夫の特徴だ。

『殺し屋1』のイチには最強の妄想力と最強の戦闘力が同居していたが,『ホムンクルス』のJK編ではまったく逆転している。すなわち,見かけ上はオッサンがJKを襲っているが,心理的にはJK側が完全に主導権を握っている。

名越はJKによる逆レイプへ抵抗する。映画だとなんだか突然綾野剛がブツを出すのだが,原作の名越は出さない──のではなく,実はむしろ明確に犯す意志をもってブツを出す。今度は俺が犯す番だ,と宣言までする。
これはやや説明が面倒で,普通に妄想バトルをすると〈記号〉のお化けことJKに勝てないので自らすすんで〈記号〉化して勝利を狙ったとか,記号的な人生歩んでるクセにセックスへ半端な夢を抱いてるJKにムカついたとか,すぐJKからカウンター逆レイプが始まるとか,まあ色々重なっているのだが,ともかく犯す意志を持っていたのは間違いない。原作のほうがヤバい。

というわけで,原作の名越を擁護するのは結構むずかしく,あまり深入りはしたくない。この是非の議論だけで記事が書けるレベルだ。

ただし危険を承知でわたし個人の見解を述べると,明確なレイプの意志を持っていた点で描写の内容は原作のほうがマズいが,作品の示す倫理的態度は映画のほうがマズい気がする。明確に「犯す」行為と宣言した原作のほうが,なし崩し的に挿入した映画よりかえって倫理的わるさを自覚している,ようにみえる。

端的に言って,映画は尺が足りていないのだ。遭遇から挿入までが早すぎる。原作はJK編だけでコミックス三巻ぶんほどを費やし,彼女の家庭環境や飲血の習慣,記号的な生活への絶望などを──いかにも古めかしい女子高生像だが──かなり時間をかけて描く。車に乗り込んでからヤるまでのやりとりだけでも,コミックス半分くらいある。

一方で,映画ではすぐブツを出す。それに名越から見たJK=記号のバケモンばかりが映され,JK自身の視点から見える世界はほとんど示されない。JKの背景,名越とJKの共通点,名越の意図,どれもよくわからないまま綾野剛がブツを出す。普通あの状況で勃たないだろ……。

しかもややこしいことに,挿入と救済は実はほとんど関係がない。原作でも映画でも救済はあくまで挿入後,JKによる血の奪還によって達成される。映画版はここの描写が不十分でもはや意味不明なため,「なんか綾野剛とカーセックスからのSMプレイしたらハッピーになった」物語にみえてしまう。

したがって,JKレイプというセンシティブな展開へ十分な物語上の労力を割いていない点で,この映画は性暴力を軽視しているととられても仕方ないと思う。成田凌に「名越さんはJKを救ったんですよ」とはっきり言わせてしまうあたりも,やはり無配慮にみえる。

正直に言えば,このあたりはアングラのカルト作品ゆえ仕方ない面もあるというか,クジラックスをフェミニズム的に糾弾するような虚しさがある。いや,倫理的なわるさは承知で消費しているよ,という虚しさ。
とはいえ,大物俳優を起用して映画化した時点でもはやアングラ云々という逃げは効かないし,かつ他のむずかしいテーマは脱色してマイルドな口当たりに仕上げた以上,もっとふさわしい変奏の仕方があったと思う。

そもそも15年前に描かれた設定をほとんどイジらずに令和へ持ってきたのが意味不明だ。記号の奴隷として生きるJK像しかり,ドスを標準装備して歌舞伎町を練り歩くヤクザ像しかり。


JK,飲血,満月

JKによる血の奪還が救済の引き金だと上で述べたが,おそらく原作未読だとさっぱり意味がわからないと思う。原作でもちいられる多様なメタファーをすっ飛ばして皮相だけ取り上げられているので,わからなくても当然だ。

はじめにJKの「超キレイじゃない」というセリフを確認する。
この際きわめて重要なのが,原作のJK編における満月は完全な図形として──真円は真理と完全さのシンボル──〈記号〉を象徴している点だ。

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セリフが〈記号〉でできている (4巻より)

母親がJKを「修復」する最中,少しずつ満月にかかったが晴れる。原作において雲は名越の象徴だ。したがってここは,JKの記号化した生に介入した名越という雲が,母親によって消し飛ばされていく,と読める。

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(6巻より)

カーセックスの瞬間に浮かぶ満月は「完全な記号にしたのはだれだよ」というセリフを明らかに先取りしているし,

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(6巻より)

直後に登場する母親はやはり背景に満月を背負っている。この満月=記号というメタファーを踏まえたうえで,当該シーンを見てほしい。

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(6巻より)

そう,月は血によって破壊される。
このシーンは〈記号〉の象徴である満月を,〈雲〉すなわち名越という他者の力を借りるのではなく,JK自身の血で打ち破った瞬間と読めるのだ。だからこそこれは「超キレイ」なのであり,更にいえばこのメタ的な視点が少なくとも名越には理解できないために,「キレイか…?」という疑問のセリフが続くのである。したがって規範からの脱却は他ならぬJK自身の力によって達成されており,「名越が犯したおかげでJKが救われる」という解釈はやや浅薄にすぎる。

なお,映画でもやはり血と満月がともに映されるけれど,両者は原作のように重なっていない。そもそも実写の月は漫画よりずっと小さいので,これは仕方ない。

つづいて〈食う〉行為も確認しよう。上のシーンと時間的に前後するが,JK救済につながる重要な要素だ。

JKは,足首にカッターで傷をつけ,流れる血を飲む癖がある。原作では何ページもかけて飲むシーンを描くのだが,映画では石井杏奈の唇に血が付いた写真がちょろっと提示されるだけだ。
名越にも同様の癖があり,彼はなんと自分の精液を食ってしまう。オタクが「実写化不可能と言われた原作」と聞いて最初に浮かべたのはここだ。残念というか当然というか,ホムンクルスのCG製作より綾野剛に精液を食わせるほうがよほど困難だったようで,映画では全てカットされている。

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まずいらしい (5巻より)

しかし,この癖にはきわめて重要な意味がある。彼らとて空腹を満たすために食ったりはしない。生きている実感を味わうために,記号化され温度を失った人生に味や温かみを取り戻すために,血や精液を食うのである。自慰にしろ自傷にしろ,生の実感の根底に快楽を据えるあたりがいかにも山本英夫らしい発想だ。言うまでもないが自傷は自慰に等しく,その意味で痛みと快楽は紙一重だ。

あらゆる内容が脱色された映画版では,「名越がJKの足首に噛み付いて血を飲む」「JKが口づけによって血を取り返す」という描写のうわっつらだけが取り上げられている。精液を食わせるのは無理にしても,せめて体液が彼ら自身にとってまさに〈〉の象徴であることくらい表現できないものか。でなければ,JKが記号を脱却するために痛みが必要だったことも,接吻による血の奪還がそのまま他者に規範化される〈生〉からの自立に対応することも,まるで伝わらない。

『ホムンクルス』において砂や水は「容器に合わせてカタチを変える」存在として描かれ,容器は得てして社会や支配者が与える。したがって液体であるを名越から奪い返して飲み込む行為は,他者の肉体=カタチではなく自分のカタチに自らの〈生〉を定義づける行動と解釈できるわけだ。

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(3巻より)

そうして,このカタチへの違和感は本来,水のホムンクルスである伊藤と密接に結びつく。さらに言えば,JKの〈砂〉が実は〈記号〉であったり,伊藤の本質が〈水〉だけでなく〈グッピー〉にあったりする事実は,ホムンクルスの解釈困難性を示してもいる。いくらホムンクルスが見えたとて,ていねいに見なければその正体はわからないのだ。

名越─伊藤─JKの関係は複雑かつ重層的だが,映画ではスカスカである。綾野剛と石井杏奈のリンクはほとんど描かれない。なぜ足首に噛み付いたのか,そしてなぜ突然救済が達成されるのか,読み解くのは困難だろう。


伊藤の扱い雑すぎ問題

原作の伊藤は名越と表裏一体の存在であり,見開きでふたりが対峙する構図が作中で何度も何度も繰り返される。15巻におよぶ長い物語は,結局のところ伊藤と名越の壮大な対話なのだ。一方は救済され,他方は堕ちる。
「他人は乗せない主義じゃなかったんですか?」「もう他人じゃないだろう」のやりとりは彼らの映し鏡な関係を踏まえてはじめて意味が生じるのであって,雑な借用をすべきではなかった。わたしは怒っている。

映画の伊藤はあまりにも薄っぺらで涙が出る。西友のハムカツより薄い。意味深な発言を繰り返したわりに真相はみみっちく,要するに父親の愛情不足が原因で承認欲求の塊になったというだけの話だ。原作の伊藤が言う「安っぽいドラマのような父親との軋轢」そのものである。

原作と違ってにカタチや規範化の意味が与えられていない以上,伊藤のホムンクルスはマクガフィン的な小道具に過ぎない。原作のグッピーをコモドドラゴンに変えたら〈水〉や〈美〉の要素が消えるので問題だが,映画の金魚をコモドドラゴンに変えてもなんの問題もない。ホムンクルスの解釈困難性を軽視してわかりやすさに堕したからこんな悲惨な設定が作られる。

伊藤─JKのやりとりもペラペラだ。
原作の伊藤もJKに「童貞のクセに」と煽られて逃走するが,言うまでもなく伊藤は童貞ではないし,ノベライズ版のように童貞くささを引きずっているわけでもない。詳しい説明は省くが,自分の肉体への違和感や〈美〉への欲求など,いわゆるジェンダー・アイデンティティにかかわる多様な背景が伊藤にはある。これは伊藤─JKをつなぐだけでなく,伊藤─名越をつなぐきわめて重要なポイントだ。ついでに言うと,JKの勘違いは単なる叙述トリックとして機能するのみならず,ホムンクルスの解釈困難性を示してもいる。

しかし,映画の伊藤は本当にただの童貞なのだ。チャラついた研修医がJKを自信満々にナンパした結果,手が震えちゃって童貞がバレて全身湿疹まみれで退散。なんだこの改変。悪い夢? 原作どおり再現しろとは言わないが,もう少し厚みのある人物にできなかったのだろうか。

伊藤の描写が浅いせいで,名越とのつながりも意味不明になった。原作のふたりはカタチへの違和感という共通項──伊藤はGI,名越は顔──を持つが,映画では完全に無化されている。なぜ伊藤は「ホテルと公園の間にいる」ことを理由に名越を誘うのか? これがさっぱりわからない。いいのか,それで。

あげく,伊藤は単なる胸糞っぽさバッドエンドっぽさを演出するための犠牲となる。名越はチヒロとくっつき,伊藤は狂う。もはや普遍性のある問いはひとつもない。伊藤が狂ったのはなぜ? 伊藤個人がエゴを脱却できなかったから。名越が「空っぽ」を抜け出せたのはなぜ? 不明。一応,ナナコの「あなた空っぽね」の一言で救われたことになっているが,随分かんたんな救済があったものだ。渋谷の真ん中で「空っぽ!!」と叫べば100人/回くらいは救えるんじゃないか。誰でもメシアになれる。

原作ではまったく逆に,名越が狂い,伊藤は救われる。
名越はエゴを克服できなかった。居場所がなかった。結局だれも自分を見てはくれないと思った。だから彼は赤の他人にナナコの名を──かつて自分を見てくれた唯一の存在を──押し付け,彼女にトレパネーションを施した。女の顔は名越になった。名越は名越とセックスをした。この日から,すべての人間が名越になった。

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人類補完計画が完了 (15巻より)

〈見る〉営みにエゴがつきまとうなら,自分を通してしか他人と触れあえないなら,いったいどうすればいいのだろう? 〈見る〉って,なんなんだ? 名越の問いに,伊藤は「わかりません……」と答えた。

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(15巻より)

伊藤は言葉で答えられなかった。しかしこのとき,伊藤の手にはケーキが握られている。名越と食べるためのケーキだ。伊藤は本来のカタチを取り戻しつつある。伊藤は父親との確執を乗り越えている。「ぶっちゃけ自分の問題が終わったので,めんどくさいことはもうイヤなんですよ〜〜!」と口では言いながら,伊藤は結局つねに名越を探して歩いている。名越がトレパネーション器具を持って消えたときは,ウィッグが落ちるのも構わず走り回る。

もう,これが答えではないか? 〈見る〉とは言葉で安易に要約できる営みではなく,この15巻を費やして描かれた物語そのものなのではないか。名越は確かに伊藤を見ていた。伊藤も名越を見ていた。名越はかつて「俺は自分にしか興味がないんだ」と言い切ったけれど,全身で伊藤の声を聞き,実験の謝礼40万をすべて使って伊藤のために服を買い,ねばり強く対話をくりかえした。そして,ここが重要なのだが,名越は自分と伊藤の差異に気がついた。

名越は,整形によってカタチを変えることで自分にウソをついた。反対に伊藤は,ジェンダー規範に収まってカタチを変えないことでウソをついた。ホムンクルスは名越自身との共通部分をあらわすが,名越は伊藤と対話を重ねることで,共通項の中にある差異の発見に至ったのだ。これが答えではないだろうか?
物語の終盤,名越の目に映るすべての人間が名越になった。他者の他者性はすべて捨象され,名越はただ他者に自分を見ていた。しかし最終回,伊藤の姿を目にしたとき,名越はまず「綺麗になったなぁ」とつぶやいた。すなわち,他のあらゆる人間を自己と同一視してしまう名越にも,伊藤だけは伊藤として名越の前に現れたのだ。これは名越が伊藤をちゃんと見ていたことの証明ではないか。

共通項の中に埋め込まれた差異。連帯の中に埋め込まれた分断。たとえばフェミニズムが〈女〉という連帯の中で不可視化された人種差別に目を向けたように,あるいは性的マイノリティ運動がLGBTという語に丸め込まれた多様なアイデンティティの存在に光を当てるように。
他者に自分との共通項を探しつつ,その上でなお差異へと意識を向ける営み──それを〈見る〉と呼ぶのだと思う。物語の最終回,名越は伊藤に「オレを見てくれないか」とつぶやく。伊藤はずっと名越を見ていたのに。

くりかえすが,「自分から見ようね」なんてクリシェに回収させた映画は,原作のスタートラインにすら立っていない。本当に残念でならない。


パンフレット最悪問題

いきなり最悪と書いたが,制作陣のコメントはどれも好感度が高い。とくに綾野剛のインタビューは本作にまつわる数少ない救いであり,彼が作品へ深く愛情を注いでいるのが伝わった。

ひどいのは中野信子と伊藤さとりだ。本当に,本当にひどい。

中野信子は「脳科学」を商品化して生きるたくましい女性であり,変化盲を「アハ体験」と呼びかえて富を築いた茂木健一郎の亜種である。脳の臭いを嗅ぎつけて飛んできたのか,制作陣が声をかけてしまったのかわからないが,ともかく彼女の文章は最悪だった。

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よくもまあこんなに無内容な文章が書けるもんだ。名越進と伊藤学はサイコパスか? って,なんだそれ。その問いは作品となんの関係が? 
ホムンクルスの解釈困難性には,人間を類型化して理解する行為への批判が込められている。名越でさえホムンクルスをただ見るだけでは相手のトラウマなどわからないし,人の心を見るのに長けた(原作の)ナナコですら,時にはホムンクルスの解釈を誤ってしまう。結局ホムンクルスを見るだけでは答えなど得られず,肌で触れて対話を重ねて,ねばり強く他者と対峙して,はじめて人を知ることができる。『ホムンクルス』とはそういう物語ではなかったか。「あいつはサイコパスっぽい」「こいつはもっとサイコ」なんてラベリングは,本作の意図をすべてドブに捨てるのにも等しい愚劣な行為だ。

結末も最悪だ。「エゴイスティックにその能力を使う可能性の高い人には,発現しない」かもしれない,だって? 原作を読んでいないのが丸わかりだ,名越はエゴに飲まれて崩壊するのだから。そもそも『ホムンクルス』とは,〈見る〉行為に不可避につきまとうエゴと正面から向き合った作品ではなかったのか。
ハナから彼女に原作の読解など期待していないし,どうせ読んでもわからないだろうが,未読なら「原作者である山本英夫さんが物語に託した希望なのかもしれない」などと利いた風な口をきくな。

恐ろしいことに,伊藤さとりのページはもっとひどい。

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お粗末すぎる。「アナタのホムンクルスは!?」って,お金をもらってやる仕事じゃないよ。作品の批判精神と矛盾するとか,原作の意図と合わないとか,もはやそんな領域の話ではない。モノ売るってレベルじゃない。
映画における歌舞伎町のワンカットだけ観ても,五種類ではおさまらない多様なホムンクルスがいたはずだ。伊藤さとりの眼には映らなかったのか? 間違って両目をつぶってしまったのか? それとも映画すら観ていないのか? こんな下らないフローチャートで人間を分類できると,本気で思っているのか?

唯一評価できるとしたら,きちんと名前を出して掲載した点だ。わたしならこんな見開きの,作品と関わる要素が一ミリもない稚拙な代物の責任を取るなんてまっぴらごめんだ。自ら断頭台に上がるがごとき高潔な精神。神よ彼女を許したまえ,彼女は自分がなにをしているのか知らないのです。Domine, quo vadis(どこへ行かれるのですか)? お前は磔刑だ。

綾野剛を除く四人はインタビューがない。四人はひとつの見開きに押し込められ,ただ経歴が申し訳程度に置かれているだけだ。なぜ彼らを差し置いて,中野・伊藤のそれぞれに見開きが用意されたのだろう? わたしは映画と資本主義には詳しくないが,どこでどうカネが動くとこんな冊子ができあがるんだろう? 真相は藪の中だ。もっとも,今さら知りたくもない。


おわりに

冒頭や結末は映画『ブレードランナー』のオマージュと聞いた。これが仮に真実なら,わたしは映画を憎悪する。原作の意図を放擲した作り手がやっていい手法ではない。

『ホムンクルス』は原作の時点ですでに古くさかった,という指摘がある。これはそのとおりだ。トラウマと向き合いつつ自己を発見するなんてプロットはいかにも90年代的だし,最終的に自己と他者の壁が溶解して人類補完計画が完了してしまう展開もしかりだ。

しかし〈見る〉行為の重みはまったく変わっていない。むしろ,もはやネット/リアルや感情/記号の二項対立が完全に融解して混じり合った現代だからこそ,山本英夫の問いがクリティカルになるはずだ。わたしは綾野剛も成田凌も好きだし,冒頭映像が公開された時点では相当期待していたから,映画を観て落胆した。

「名越は天使」だの「私も名越になりたい」だのの感想が出た時点で,この映画は失敗だ。わたしもあなたも既に名越だ,そう言わせてほしかった。本当に残念でならない。


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