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みまたかほ 『つばめにハサミ』 ☆7 フェチの文学


無料の読み切り作品。面白いのでぜひ。
作者のTwitterにも全ページアップされています。

ストーリー

子会社から親会社に出向中の青年・玄森は、年上女性の心を開いて身体を重ね、飽きたら捨てるダメ男。そんな玄森は同じ職場でみかけた、高給取りだが冴えないアラフォー女性の立山さんに目をつけるが――?

三十ページ足らず,読んだほうが早いけれど,ネタバレ込みで説明します。
年上女性を食っては壊す玄森。職場の先輩を一人壊し,つづいて総務の立山を狙うが,化粧っ気のない地味女である彼女は,うなじフェチでトレーニング好きの変態筋肉ババアだった。培ってきた技術と自尊心を砕かれ,女性問題で会社もクビになり,逆に壊されてしまった玄森は,もう一度立山のもとへ行く。


本作のよさ - 時間表現

漫画がうまい,と感じるシーンが多かったので,詳述を試みます。

一つは時間のコントロール。緩急ともいいます。

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冒頭2−3ページの抜粋です。
タイピング音が3コマ目で「カタ」1つに減ることで,玄森の作業が一段落ついた,少なくとも文章を打ち終えたのだとわかります。立山の視線には気がついていたので,作業が落ち着いたところで目を遣った,この一連の,ほぼ静的な動作をタイピング音だけで表現するのは端的に言ってうまいと思います。

さらに優れているのは,次のコマで既に立山が立ち去っている点。1ページ目のゆっくりな,うなじを喜々と見つめる立山の主観時間を反映したような遅さから,次のコマでは日常のスピードに戻っている。お話のつかみから日常への移行時間の速度変化で表すという意味で,うまい導入だと思います。
遅さはある種のドラマティックさを生みます。『スローモーション考』なんて本があるくらいですからね(積ん読)。

なお付け加えると,ふゆふゆと揺れる後ろ髪は,もちろん「つばめ」の翼を連想させる記号ですが,同時にタイピングの動作性も表しているわけです。


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つづいてこのシーン。玄森の表情を固定することで,呆気にとられて時間が素早くすぎる様子を描いています。
とくに珍しい手法ではないかもしれませんが,個人的に表情の固定はむしろ遅延をもたらす印象が強く,加速にも使えるのか,と勝手に納得しました。

固定による遅延といえば岩明均です。

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ヒストリエ』より。完全な固定ではありませんが,ミームとして有名なので。
表情をアップで3コマ繰り返して微妙な時間経過と心情の変化を表す手法を,彼は『骨の音』のころから『ヒストリエ』に至るまで使いつづけています。
岩明均については,すこし前の『ユリイカ』に中田健太郎氏らの対談が載っています。ぜひご覧ください。ぼくは彼らの絶大な知性とオタク度に打ちのめされ,半分も読めませんでしたが…。

他の有名どころだと『刃牙道』でしょうか。

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勇次郎の困惑を描いていますが,証明写真みたいですね。

岩明均の印象が強いだけで,実際は加速に用いられるケースの方が多いのかもしれない,といちおう予防線を張っておきます。
いずれにせよ漫画的にうまいという評価は覆りません。


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ここも印象的です。画面の左右でうまく対比構造を作っています。
左右に分けるだけならありふれていますが,画面右半分では視点が徐々に遠ざかり俯瞰的になっていく一方,左半分では上体→指→口元と近視眼的に変化するさまを描くあたりが丁寧です。

全体的に細かい対比が効いているんですよね。
細身と筋肉質,低賃金と高給取り,若年とアラフォー,など。もちろん玄森-立山間だけでなく,立山-先輩社員(というより一般女性)間の対比も意図して描かれています。「つき合わない?」と夢を見ちゃうおばさんと,「ひとりで生きてくつもり」と割り切る立山,とか。

不均衡」が1つのテーマ,と言ってもいいかもしれません。
AV監督の二村ヒトシは,『どうすれば愛しあえるの 幸せな性愛のヒント』の中で「立場の不均衡」と「発情」の関係に触れています。二人が対等だと関係が友愛的になってしまう,立場の不均衡こそ発情のスイッチとなりうる,といった話です(社会の作った物語に過ぎないかも,と指摘もしています)。

この物語には対等な関係が登場せず,一方が強さを押しつけるのが基本です。
「若さ」という性的魅力で女性を支配してきた玄森が,圧倒的に歪んだ「フェチ」の強さで立山に物格化され,ついには経済面でも精神面でも支配されて終了する。

まさに修羅の国です。この支配-被支配関係を(精神面だけでも)脱する解釈を一つだけ思いつきましたが,それは後述します。

ところで「立山」「つばめ」と聞くと北アルプスを連想しませんかね。二人の共通項といえばメガネですが,燕岳(読みはツバクロ)にはメガネ岩があります。
こじつけです。


本作のよさ - タイトル

一番うまいと感じたのはタイトルです。

言うまでもなく「つばめ」は玄森,「ハサミ」は立山を指します。
玄森の揺れる後ろ髪がつばめの視覚的シンボルであるほか,渡り鳥のイメージから女性を次々と取りかえる玄森の生き様を連想させ,かつもっと直接的なワードとして「若いツバメ(年上女性の愛人となっている若い男)」もあり,多義的な単語をうまく1つのキャラ像に落としたな,と素直に感動しました。

当然ハサミは理美容師のシンボルですが,あえて言うなら攻撃性残虐性を見てもいいでしょう。尖ったフェティシズムにはたいてい攻撃性が伴います。
オタク向け美容院OFF-KAI ! のオーナーがオタクの思想間対立を「政治」と呼んでいましたが(注1),性愛はそれの究極形態といえます。まさに「政治」的な対立を生む。

タイトルが「つばめハサミ」ではなく「つばめハサミ」なことからわかるように,本作はハサミがつばめの羽を切り落とす物語です。玄森はかつてのような奔放な性愛はできなくなり,経済面・精神面ともに完全に立山に依存します。

「蜘蛛の糸」がシンボルとして描かれるシーンがありますが,あそこは玄森が「ヒモ」になった瞬間でもあり,皮肉にもモチーフが共通しています。
ハサミはヒモをいつでも切り落とせる,というのが悲しいところ。

ハサミを「毛づくろい」として好意的に解釈している方もいましたが,二人の関係は支配と被支配,あるいは飼い主とペットの構造であって,立山にすればネコが一匹増えたくらいの感覚ではないでしょうか。

二人の関係は後ほど詳述します。
話を戻すと,一話完結という情報量の限られる形態で,タイトルに強い意味をこめるのは大切です。最たる例は4コマ漫画。

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数年前のネットで狂ったように貼られていたニャロメロンです。今見ても面白い。
タイトルをあえて作品のいちばん最後におくことで「ツッコミ」に変えていますね。少ない情報をタイトルで補完するいい例だと思います。


タイトルの役割(余談)

ここからしばらくは余談ですが,創作で「タイトル」が果たすべき役割の大きさについて最近考えています。
「タイトルは作品の一部か?」といってもいい。すこし説明します。
長いので興味のない人は飛ばしてください。

オタクはタイトル回収が好きです。『寄生獣』とか『進撃の巨人』とか。ニャロメロンと違ってはじめからタイトルが提供されており,後ほどその真意がわかるという仕組みですが,作品の意図を強化するためにタイトルを使う点では同じです。寄生獣や進撃の巨人では驚きを,ニャロメロンでは笑いを強化するためにタイトルが使われている。

もちろんどれもタイトルを知らなくても楽しめます。上の4コマから「反復生き死に」を消しても笑えますし,(想像しがたいですが)タイトルを知らずに寄生獣を読んでも面白い。『つばめにハサミ』も同様です。しかし,タイトルと作品の結びつきは,明らかに作品のメッセージ性を高めます。

ここで疑問がわきます。「タイトルは作品の一部なのか?」
当たり前だろ,と言われそうです。僕もそう思います。しかし,タイトルの果たす役割の大きさは作品によって異なる。説明のために演劇のことばを借ります。

演劇にはengagement & detachmentという概念があります。演劇を観るとき,人物に感情移入して舞台にのめりこむ瞬間と,反対に一歩引き,虚構として舞台を眺める瞬間があって,前者をengagement,後者をdetachmentと呼びます。あるいは実体っぽさと虚構っぽさといってもいい。

実際の劇ではこの二面性が共存し,お互いに影響しあいます。
たとえば舞台横のベンチに役者がみんな座っていて,出番がくると立ち上がり,終わるとベンチに戻る,なんて演出がありますが,これは舞台が虚構にすぎないことを伝える表現です。作品世界を批判的に眺めるにはdetachmentが不可欠。「おもしろかった!」「○○,サイコー!」だけでは,ものを考えられません。

反対に,真に迫った演技は観客をひきつけ,舞台に没入させる。観客がカタルシスを得るにはengagementが必要です。アリストテレスはengagementによるカタルシスを,ブレヒト(ドイツの劇作家)はdetachmentによる批判的思考の醸成を重視したので,彼らの名で説明されることもあります。

演劇はことに虚構性を強く出すメディアに思えます。映画やドラマで,役者の着替えるシーンが映る…とかありませんよね,たぶん。詳しくないですが。
おそらく昨今はさまざまな空間でengagementが重視されています。リアルであること,自然であることが,強い評価基準になっている。
かつて漫画にしばしば見られたメタ表現が駆逐されつつあるのも,engagement重視,リアリズム偏重の煽りではないでしょうか。メタ表現は明らかに作品の虚構性を強調するはたらきがありますよね。

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ピンとこない人のためにメタ発言の例をあげます。『ドラえもん』より。
ギャグ漫画やオムニバス系の漫画ではメタ発言が許容されやすいのも,やはり虚構性の問題だと思います。

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今ではサジェストに「嫌い」と出てくるくらいで,ずいぶん嫌われものになってしまいました。かくいう僕もあまり好きではありませんが。

さて,話を「タイトルの役割」に戻します。
タイトルはあくまで客観的なラベリングにすぎません。どんなに作品がリアリズム重視であっても,タイトルは作品を外から見た誰かが勝手に名づけただけで,避けがたくメタ的なのです。自分がイベントの当事者になったとき,いちいちタイトルをつける人は少ない。失恋で泣きながら「この恋を『コープ牛乳とジュリエット』と名づけよう」なんて考える人はいないでしょう。

その意味で,タイトルを付ける行為,およびタイトルを鑑賞する行為は,engagementの対極にあるといえます。タイトルが回収されて「寄生獣とはそういう意味だったのか!」と感動できるのは,一歩引いて外から作品を眺めているから,あるいは回収の瞬間に作品の「外」に身を置くからです。Detachmentがゆえの感動

つまりリアリズムからほど遠い表現なのに,メタ表現と違って嫌われてはいません。おそらく上述のように「タイトルがなくても成立するから」でしょうか。あくまで感動の強化でしかなく,作品の本質ではない。寄生獣というタイトルを知らなくても,広川の演説は成立する。メタ表現と大きく異なる点です。

でも,タイトルの効果がdetachment由来であることは忘れてはならないと思うのです。本当は強く感情移入してほしいシーンであっても,タイトルを意識させる描写をしてしまうと,読者を作品から引きはがしてしまうかもしれない。漫画に限らずあらゆるメディアに言えることです(本当は失敗している例を挙げたかったが,なにも思いつかず)。
タイトルは虚構的なラベリングにすぎず,「作品」の一部ではあるけれども,「作品世界」の外にあるもの。結論は月並みですね。

本当はマグリットの「タイトルは絵の説明ではない」という発言から議論したかったんですが,「作品とタイトルの不一致」もそれはそれで意味を持っているし,むしろタイトルの存在に強く縛られるような気もするし,そもそも絵画とかなにひとつ知らないのでやめました。

漫画や小説のようにいくらでも繰りかえし読めるメディアと,演劇や映像作品のように一回性が重視されるメディアで,タイトルのあり方は違うかもしれません。
「ラノベのタイトル長すぎ問題」もなにか新しい切り口で理解できませんかね。大衆はわかりやすいものを求めている…でもいいんですが,ちょっとさみしいので。


読み切り・記号・フェチ

「読み切り」という観点からもうすこし話をします。
読み切り,とくに一話完結の漫画はたかだか30ページしかなく,きれいな起承転結を設けるのはとてもむずかしい。

くわえて,強いインパクトも求められます。叙情にステータスを全振りした『紅い花』のような読み切りも存在しますし,ぼくのもっとも好きな読み切りでもありますが,あれはかつての,今ほど娯楽に満ちていない世界に描かれた,という点を忘れてはいけません。
いまや無料の漫画がありふれ,古くさいことばだと大量生産 & 大量消費の時代ですから,一つの作品が広まるには強い印象を残さねばなりません。

『つばめにハサミ』はそれなりに強いインパクトがあります。核は性と暴力です。いつの世も強い力を持ちます。
上述したように尖ったフェティシズムはしばしば暴力を伴いますから,「イカれたうなじフェチ」は性と暴力をともに内包したモチーフといえます。当然,インパクトが残ります。

しかし,性愛は諸刃の剣です。というのも,性愛,フェティシズムはあまりに記号として強力すぎるから。強い説得力,あるいは必然性がないと,キャラやストーリーが記号に振りまわされて終わります。「なぜそのフェティシズムでないといけないのか」を納得させるのは意外とむずかしい。そこに安っぽい根拠が透けて見えるとき,人は作品を薄っぺらいと感じる。

最初はわからなかったのですが,本作のフェチの描き方はかなり丁寧です。
たとえばふだんの性欲処理をどう行っているのか,背景が見える点。

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男でも女でも欲望を満たせない。なるほどありそうな話です。
そしてこの「性の対象どうしよう問題」は別の側面からも描かれています。

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彼女は理容師と美容師,両方の資格を持っているのです。理容師は男,美容師は女の客が多いですよね。もちろん単に就職先を広げるためかもしれないし,僕が知らないだけで両方取得するのが普通なのかもしれない。
でも「男も女も完璧なうなじを持っている人は少ない」という文脈をふまえると,理美容師のどちらを選ぶかギリギリまで決めかねていたのでは,と想像力がはたらきます。
そして,結局どちらの道へも進まなかった。この事実が「一人で生きてくつもり」というセリフの厚みを増します。

「うなじフェチ」自体はただの記号なので,「どれだけうなじを愛しているか」だけ描写されてもつまらないし,安っぽい。玄森のうなじを吸う(?)シーンを10ページ使って濃厚に描いたとして,リアリズムが芽生えるわけではない。
むしろ周縁にこそ実在が宿る,それを再認識した次第です。

ついでに補足すると,立山のネコ・アントワーヌの元ネタは,おそらく「大人は判ってくれない」ですよね。立山らしくていいと思います。


本作の謎 - 玄森の幸せ

本作には謎があります。「なぜ玄森は幸せに生きているのか?」という謎です。

立山の”行為”の仕方から明らかなように,彼女はうなじにしか興味がありません。玄森を家にあげたのも,抱き合った(?)のも,ヒモとして養ったのも,すべては美しいうなじを愛でるのが目的で,玄森の人間性は一切考慮されていないのです。

本作を「玄森と立山の化学反応」と形容する方がいますが,若干誤りがあって,反応したのは玄森だけです。立山は作中でなにも変わっていませんから,彼女は触媒とか酵素というほうが正しい。

さて,玄森はもともとおばさんキラーでした。表層的な関係しか築かず,年上女をもてあそび,自分に十分依存させて楽しむ。相手を物格化して欲求のはけ口とするやり方は,これも『どうすれば愛しあえるの 幸せな性愛のヒント』にある宮台真司の表現を使えば,フェチ的コントロール的な性愛です。この点は立山と共通します。

そんな回避依存症タイプのメンヘラである玄森が,変態筋肉ババアによって逆に物格化される。暴力すら届かない。「今まで捨てた女もこんな気もちだったのかな」とあるように,被害者になってはじめて,彼は女性側の視点に立てました。

でも彼はいろいろと勘違いしています。
立山が「飾らないから話しやすい」のは,単に玄森を人間と見ていないだけです。家に上げた時点でうなじは手に入れたも同然で,対話の必要がない。
「ブッ飛んでるけどスゲーしっかりしてる」とはなにを指すのでしょう。健康に気を使うのはいいことです。しかしそもそも彼女が一人たくましく生きているのは,フェチ的性愛に特化しすぎてパートナーを見つけられないからです。
「気持ち良くなってほしかった」は一部事実かもしれませんが,殴った理由をすべてそこに帰属させるのは無理でしょう。コントロール欲求が満たせずにムカついた,も事実のはず。
恋は盲目,あらゆる事象を美化してしまうあたり,かわいそうに玄森は完全に壊れてしまったようです。

理屈で考えれば,立山はママさんキラー時代の玄森をはるかに上回るゆがんだフェチ欲・コントロール欲のオバケであって,玄森と関わった女性が不幸になったのと同じく,立山に近づいても玄森は不幸にしかならないとわかるはずです。
しかし,恋愛は理屈ではないので,玄森が立山に惚れるのはありえます。あるいは金で玄森とのつながりを保とうとする女性陣と同じ構造に堕ちた,ともいえる。

しかし関係を持続するとなれば話は別です。
立山の”行為”はどこまでも一方的で,玄森の意志が介入する余地はない。「気もちよくなってもらう」のは可能だけど,立山が勝手に気もちよくなっているだけ。玄森にターンは回りません。

こんな関係が持続するでしょうか。僕は不可能としか思えません。経済面でも,性愛面でもコントロールされながら,なぜ玄森は幸せそうなのか。
真にペットと飼い主になるならともかく,”行為”という相互作用がある以上,互いの一方通行さ,関係の不毛さに目をつぶり続けることは不可能なはずです。

何日も考えてようやく答えが出ました。
玄森は「うなじを吸われるフェチ」になった。もうこれしか考えつきません。
二人の性愛が一方通行でなくなるには,うなじ吸引に両者が価値を見出すしかない。最適解だと信じています。

宮台真司のフェチ批判は,両者のフェチが完全に一致した場合を考慮していないんですね。うなじフェチとうなじを吸われるフェチのペアなら,二人の行為は単なる支配-被支配,主体-客体の関係を超えて,対立概念であるダイヴ的・フュージョン的性愛に昇華しうるのではないでしょうか。


まとめ

たいへん長くなりました。30ページ弱の漫画でここまで話がふくらむとは。
何人いるかわかりませんが,ここまで読んでくれた方に感謝します。

「うなじを吸われるフェチ」は半分ネタですが,他にいい回答が思いつかなかったのも事実です。まともな解釈がある方,ぜひ教えてください。


注1: https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1905/17/news016.html





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