角田光代「ロック母」書評(評者:眞銅隼斗・芝本剛志)

更新が滞っていました。4月最終週の3回生ゼミでは角田光代「ロック母」を読みました。書評は眞銅隼斗さんと芝本剛志さんのお二人に書いていただきましたが、その後のディスカッションではゼミ生の間で読み方が分かれ、興味深い議論が繰り広げられました。


角田光代「ロック母」書評(1)(『群像短篇名作選 2000〜2014』収録)
評者:眞銅隼斗

 近く、臨月を迎える主人公が父と母に会うため、島にある実家に向かう高速艇に揺られながら、昔と変わらない光景を眺めている場面から始まる。
 この物語は、出産に対して、無責任な主人公が、変わってしまった母の姿を見て、「理想」という「空想」にとらわれていた自分に気づき、出産を経て、目先の「現実」を仕方なく見つめるようになる物語だと感じた。
 船場まで迎えに来てくれた父親との会話では、父親は主人公の妊娠をよく思っておらず、主人公もP74の17行目の、父親から母親の体調がおかしいと聞かされた時、「覚悟を決めて帰ってきた意味がない」というところから、出産をするという責任を誰かに押し付けているという印象を受ける。
 実家に到着した主人公はいつもと変わらない様子の母と再会する。ここでは、家族三人で夜ご飯を食べるシーンが描かれている。そして、実際には結婚どころか、堕胎をすすめるような父親を、まるで庇うかのように、両親にその場に父親がいないことの嘘の説明をした。ここからも、主人公の無責任な言動がわかる。
 明くる朝、父親から少し聞いていた、母の様子が変だという話の意味がわかる。母は主人公が高校生のころに聴いていた、レコードやCDを大音量で流しながら、人形に着せるような小さな和服を縫っていたのだ。主人公も高校生のとき、島の全てに嫌気がさし、イヤホンを耳にし、大音量で「理想」の世界に浸っていた。P84の二段落目で「高校生の私みたいに爆音で要塞をつくり」とあるが、主人公は母とは異なる理由だとしても、現実逃避をするさまを分析し、昔の自分と重ねて、何か共感する気持ちを持ったのだろう。ここで、主人公は母の姿から、「理想」の世界で生きていたことに初めて気付いたと考えることができる。
 近隣に住む、田所のおばちゃんと話す場面では、主人公は母に二人の会話がそのまま伝わると考え、嘘の話をした。ここでも、主人公が現実から逃げていることがわかる。また、P85の14行目の「臨月に、得も言われぬ不思議な至福感を味わった」と経産婦の言葉を主人公は思い出し、実家に戻れば少しは楽ができると考えていたことや、P86の「私は迷っていただけで何一つ決めていないのに赤ん坊が生まれてくる」というところから、主人公は周囲の人が右往左往してくれると、傲慢な考えを持っていると言えるだろう。
 その後、出産のために呉の病院に入院してお産を待つことになる。母は主人公の旦那のことや妊娠の経緯について聞くことはなかった。P87の「ニルヴァーナから離れた母は十年前とまったく同じ母」だとあるが、なぜだろうか。私は音楽(ニルヴァーナ)が「空想」の世界を表し、音楽から離れると「現実」の世界になることを表していると考える。これは後の出産前後の場面からも読み取れる。
 最後に出産の場面がある。ここでは、主人公の心境に大きな変化があった。出産直前のP90の4行目から「赤ん坊の名前もまだ決めていない」や「産んでからどうするかもまったくわからない」とあり、まだ、出産への準備ができていないことがわかる。しかし、P91の出産中にイヤホンをつけられる場面では、「私もうニルヴァーナなんて聴かないの。ファックとか言ってる場合じゃないの。頭のなかに友だちを作ることもないし架空の銃をぶっ放したりもしないの」と言っていることから、これまでの「空想」を見るのではなく、産まれてくる子のために「現実」を見るという気持ちの表れだと考えられるだろう。そして、p92の4行目に「だれかが私の耳からイヤホンを外す」という表現がある。私はこの場面が、主人公が「空想」から「現実」へと引き戻され、赤ん坊を出産したという事実を受け入れているのだと考える。
 この物語はどんな「理想」や「空想」を描いたとしても、自分が生きているのは「現実」だということを突きつけられ、決断や責任を他人に転嫁すると厳しい「現実」が待っていると教えられるものだと思った。


角田光代「ロック母」書評(1)(『群像短篇名作選 2000〜2014』収録)
評者:芝本剛志

 本作の主人公は物語を通して思い込みの強い人物として書かれている。主人公が島へ帰るきっかけとなったお腹の中の赤ん坊も、当時の彼氏と結婚を前提としていたという思い込みがそうなった原因の一つである。また、主人公が18歳で島を出るきっかけも、洋楽を聞きながら夢想した、ロンドンやニューヨークや東京の曇り空の下、島ではないどこかの空の下では自分は人生を謳歌できると思い込んでいたというものだ。東京に行った当初はそうだったのだろう。80p②段落目には都会の洗礼を浴びながらも、島にいたころに夢想した自分の虚像を追い続けていた。しかし同ページ③段落目の最初は「今ではそんなことはない」とはっきり言いきっている。これは都会に慣れ、いつか夢見た自分の虚像が、どこか遠くに行ってしまったような思いの表れだ。「私はもうウォークマンを必要としていない」「外界と自分を隔てる必要がない」という言葉は今では日常となってしまった都会の生活と自分の理想との決別が表現されているのではないだろうか。
 島に帰った主人公を出迎えたのは父だった。父と主人公の会話では方言と標準語の対比がなされている。10年も東京にいた主人公が話す標準語と、ずっと島にいた父親の話す方言の対比は「島にいた自分」と「都会に出た自分」のメタファーなのではないだろうか。また、島に帰ってもずっと標準語で話す主人公は、都会での生活が日常になっているということも表現している。
 実家に着いてからは、母との久しぶりの対面を果たすも、妊娠の話題を不自然なほど避けている両親に対して不満げな主人公の様子が見て取れる。主人公が不満である理由は86p①段落目に書かれていたことを当てにしていたが、お腹の赤ん坊のことを、まさしく腫れ物に触るような態度であったからだ。これも主人公の「両親なら孫のことを喜んでくれるだろう」という思い込みがあったといえる。
 両親との食事の際には主人公が必死に一人で帰ってきた言い訳を伝えているシーンが印象的だ。夫がいないことの理由を薄々理解しているであろう両親に、必死に取り繕っているのだ。嘘を隠そうと口数が多くなり、そしてそれを「両親が何もしゃべらないから」とあたかも自分の行為を正当化するかのように、自分にも言い訳をしているのだ。
 次に、母親が爆音で主人公が学生時代に聞いていた洋楽をステレオセットで流しているシーンがある。自分が昔、同じように音漏れしているのも気にせず、爆音で音楽を流していたことを思い出す。昔の主人公にとって「洋楽を爆音で聞く」という行為には現実逃避をするという意味を持つ行為だった。しかし今となっては86p最終行の「私をどこへも連れて行ってはくれない。私を現実に閉じ込めるだけである」というように、今の主人公にとっては全く逆の意味を持つものになってしまっているのである。そして今、過去の主人公と同じように洋楽を爆音で垂れ流している母親の姿は、主人公にとって痛々しいものとして映っているのだろう。島をほとんど出たことのない母親が、たとえ出たとしても島の方が良いとうんざりする母親が、昔の自分のように現実逃避しているのではないかと考えた。まるでそれが悪辣な所業であるかのように思っているのではないだろうか。
 そしてまたここにも「島」と「都会」の対比が書かれている。77p最終行から78pの後ろから3行目までの一幕だ。都会での感覚が抜けない主人公と、ずっと島にいた母親との対比という形で書かれている。
 田所のおばちゃんとの会話シーンでは、家族内で満足にコミュニケーションが取れていないせいで、家族の話を田所のおばちゃんを介して行われていることが示されている。そして82p後半「ところでよう」から始まる台詞では、主人公の島に来るまでの経緯を、両親が触れなかった代わりかのように突っ込んでいる。私は、主人公がこの行為を好意的ではないにしろ、家族の話をできるという点ではありがたいものであると思っている、と考えていたのだが、86p②段落目「田所のおばちゃんは詮索しかしない」という部分で、主人公的には好意的どころかむしろその逆に感じているかもしれない。思い込みが強いだけでなく、性格もひねくれているということなのだろうか。
 出産準備のため、母親と呉の病院へ行ったシーンでは、母親が主人公のことをどう思っていたのかが示されている。それが最も強く表れているのが88p②段落目「そうよ、自分の体の中に~」から始まる台詞である。母親は娘(主人公)が生まれるのが寂しいと語った。ずっとお腹の中にいて欲しかったとも語っている。この会話の中で母親のお腹の中というのは主人公が育った家であり、そして主人公が憎んだ島のメタファーである。母親は主人公が島を出ていくことが嫌だったのではないだろうか。けれども主人公は生まれた島を憎み、出ていった。そして10年ぶりの帰省では腹に赤ん坊を抱え、その父親はおらず、そして方言が完全に抜けきった都会人だった。その時母親はどう思ったのだろうか。
 母親はずっとニルヴァーナを聞いていた。歌詞の意味も分からないのに大音量で聞いていた。「デナイ、デナイ、デナイ」と小さく歌いながらである。
 島に残った母親にとって娘(主人公)の残したステレオセットは、自分の娘を象徴するものであったのではないだろうか。学校へ行くときイヤホンから漏れるほどの大音量で娘が聞いていた曲を、娘がいなくなった寂しさを紛らわせるために聞いていたのではないだろうか。89p6行目の母親の台詞から主人公が感じ取った、「どこかに行きたい」という感情は間違いなのではないかと思う。
 出産のシーンでは主人公が心にゆとりを持てていないことが表されていると同時に、生まれてくる子に感動を覚えるといったものが読み取れない。「排便のような感覚」「異様にうるさい」という部分からはやはり、「(自分含め)誰も歓迎していない」という言葉通りとなっているのだと思う。そしてうるさいと思った赤ん坊と母親の鳴き声が、耳に捻じ込まれていた音楽のようだったという表現からも、どこかわずらわしさを感じていると読み取れる。
 主人公が10年ぶりの帰省で大きな爆弾を抱えてきたところか始まるこの物語は、読めば読むほど主人公の事を嫌いになりそうになった。それとは対照的に主人公の母親には、読み込めば読み込み程、その人間性の優しさが際立ってきたように思う。本作を一言で表すのであれば、「親の心子知らず」が当てはまるように思った。


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