高山羽根子「うどん キツネつきの」書評
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高山羽根子「うどん キツネつきの」書評

今週2本目の書評は、竹中菜南子さんです。

高山羽根子「うどん キツネつきの」(大森望・伴名練編『2010年代SF傑作選2』収録)

評者:竹中菜南子

 なぜ人は動物を飼うのか。人間が動物を飼うということはとても苦労の多いものである。餌を毎日与え、散歩に行けば糞を拾う。病気になったら病院に連れていき、治してもらう。お金がかかる上に、自分の時間を取られてしまう。しかし人間は動物を飼いたいと思う。この作品ではなぜ人間は動物を必死に育てようとするのか、ということがSFと織り交ぜられて読者に考えさせるものとなっている。
 「うどん」とは作中に出てくる三姉妹が拾ってきた犬の名前を表す。そのうどんを拾った日を「一日め」として、七日め、四年め、七年め、十一年め、十五年めと話が区切られている。しかし肝心のうどんが出てくるのは、発泡スチロールに入った、ゴリラのような鳴き声をする小さな内臓のような塊を保護し、家で飼い始めるという一日めのシーンのみだ。そのあとは三姉妹の日常が描かれており、まったくSF要素も感じられない。十五年めで三姉妹の祖母が亡くなる。長女の和江が葬儀の帰り道に発泡スチロールの箱が空に浮かんでいるのを目にする。箱の中から動物や鳥の頭の形をした蓋がついた卵型のカプセルが4つ降ってきて、3つのカプセルの中から狐の頭で人間の体をした生き物が出てくる。その三匹が残りの開かないカプセルをじっと見ている姿を和江が見て、「ああ、そっか」とつぶやき、なぜうどんを拾い、育ててきたのかが解ったと言う。それは今まで不思議に思わず、まともに考えてもみなかった理由らしい。そして「いまごろ家ではたぶん、うどんが寝息を立てている。」という一文で作品が締めくくられる。
 最後の数ページにSFな話が組み込まれ、完全に読者に解釈を投げたという感じするが、私も犬を飼っていることで、なんとなくなぜうどんを育ててきたのかがわかるような気がした。それは人とのつながりを大切にするためではないか。うどんを飼い始めた七日めに三女の洋子はペットショップで同級生の話したことがない井上くんと会話することになる。この出会いはうどんを拾っていなければ、なかったものだろう。洋子は井上くんの飼っているニワトリの話を聞くことも、井上くんとドーナツを食べることもなかった。七年めには次女の美佐が彼氏の実家で飼っている犬を彼氏と同棲している家で預かることで、三姉妹が集まってたわいもない会話をするシーンが描かれている。うどんを飼っていなければ、犬を預かることにも躊躇していたかもしれないし、三姉妹がこうして集まることもなかったかもしれない。十一年めでは和江が一人暮らしをはじめ、なかなか家族と話すこともなくなっている。しかし、母親がムーンウォークを練習し始めたときにうどんを踏んでしまい、病院に連れて行ったと洋子から電話がかかってくる。うどんにとっては災難な話だが、うどんがいなければ洋子と会話することも、母親の行動に和江が一人笑うこともなかっただろう。
 どの時代にもうどんが直接出演することがなく、そもそもゴリラのように鳴くうどんが犬なのかどうかも説明されることはない。しかし登場人物たちはうどんだけでなく、蟹やふくろう、介護が必要な犬などによって繋がりを感じさせる。私も犬を飼い始めたきっかけは家族とのつながりを大切にしようということもあった。しかし私も最初は命をお金で買って、その上一生つきっきりで世話をしなくてはいけないことに違和感があった。三姉妹の母親も「何の役にも立たないのに」などと話している。だが飼い始めてしまえばなくてはならない存在になり、家族の一員になってしまう。母親も口では役に立たないなどと話しているが、「あの子は、母のぬくもりを知らないから」と心配している。この作品の登場人物たちにとってうどんたちというのは知らないうちに人と人との接着剤となって結び付け、家族となって癒してくれている存在だと感じた。今まで不思議に思わないほど動物は近くにいて、気づかぬうちに三姉妹の関係をつなげていた。動物を飼ったことがある人がこの作品を読めば、まともに考えたこともない、動物がどれほど自分に影響を与えてくれているのかということがわかるだろう。

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京都産業大学現代社会学部の菅原祥ゼミのNoteです。