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石牟礼道子「七夕」書評

今週2本目の書評も西野乃花さんになりました。石牟礼道子の短篇を書評していただきました。

石牟礼道子「七夕」(日本文藝家協会編『現代小説クロニクル1990-1994』講談社文芸文庫、2015年)

評者:西 野乃花

 この物語は、妙という女性によって語られているが、彼女とは別にもう二人の主人公がいるような感覚を覚えた。作者である石牟礼道子による詩的な言い回し、たった十六ページの長さの中に描かれるあでやかな雰囲気が、七夕というロマンチックな一日を上手く作り出しているように思えた。

 語り手の妙は十七ほどの年齢であり、母の代わりに参加した法事から帰宅するところから物語は始まる。帰宅途中に幼少期に友人であった正也と再会するが、様々な思いと正也の置かれた現状に戸惑い、妙は気の利いた一言もかけられずにその場を去る。正也には人殺しの弟というレッテルが張られており、それは十年以上たっても消えないものだった。正也の兄は、村にあった楼の女郎の尾花を殺してしまった。殺害動機は語られていないが、当時の妙の年齢を考えれば当然のことだと思う。妙、正也、尾花の三人は、七夕の日にそれぞれ特別な思いがあるのではないだろうか。正也はそれまでは普通の人生を歩むことができていたのに、身内が起こした犯罪により周りから後ろ指を指される毎日になってしまった。例えば、冒頭で妙と再会したときに、法事の土産を泥の中に落とし汚れてしまった妙の手に、これで拭けばよいとタオルを渡しかけていたが、かけた言葉は作ったような明るさで差し出したタオルは後ろめたさが相まって引き気味であった。それに対し、妙は「すみません」と他人行儀な一言を何とか返せた程度で、お互いに昔のようにはいかないと納得してしまったように感じた。尾花とは楼の看板女郎で、妙にとっても姉のような好ましい人間であった。尾花は殺される一年前の七夕で、自身の年齢が十六であるということにどうにも煮え切らない様子で、それはきっと、看板女郎だと言われている彼女は、十六、七歳になると客を取り始めることがきまっていたからだろうか。不安や焦燥、そんな心境の中で、楼を中心に華々しく行われる七夕の祭りに、尾花はどんな思いで飾り付けをしていたのだろう。

 七夕は「たなばた」とも「しちせき」とも読むらしく、七月七日の夜に願い事を書いた色とりどりの短冊を笹の葉に吊るし、星に祈るといった古くからおこなわれている日本のお祭りである。七夕を「たなばた」と当て字で読むのは、「棚機」という禊ぎ行事から由来されているそうで、乙女が着物を織って棚に備え、神様を迎えて秋の豊作を祈ったり人々の汚れをはらうというものであったといわれている。織姫と彦星の再会ストーリーはやや後付けのようなもので、地域によっては天気の良し悪しで再会できるできないが変わる伝説として語られている。本書「七夕」において、「十六になったら、あたいも女郎さんになる」と話す妙に対し、妓たちは笑い、尾花は折りあげた小さな青い紙の船を渡す。 

世界が全部、赤い色になって、ゆっくり裏返ってゆくような心持がしていた。そしてその赤い空に、小さな紙の船がぽつりと浮かび、五色のひらひらに囲まれながら吸い込まれてゆくのがみえた。

 夕焼けの空から夜の空へと移り変わり、この年も七夕の祭りが始まっていく。尾花が折ってくれた船は天の川を渡るために、赤い空に溶けていく。幼いながらに真偽はわからずとも女郎という職に夢を見てしまった妙を、ここには来られぬように川の向こう側へと送り届けるような、そんな雰囲気を感じた。尾花にそんな意図はなかったかもしれないし、むしろ六つという若さや自分に比べて恵まれているだろう境遇に嫉妬していたかもしれない。正也にいたっても、後ろ指を指される環境を憎み、村の人間や、身近にいた妙に負の感情を向けてもおかしくはない。七夕の日が来るたびに、神に祈る神聖さと、殺人という重い罪によって引き起こされた薄暗さの対照が、より濃く照らし出されていくのだと思う。

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