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ケン・リュウ「紙の動物園」書評(3)(評者:田中小葵)

「紙の動物園」の書評3本目は、田中小葵さんに書いていただきました。

「紙の動物園」書評(『紙の動物園』早川書房)

評者:田中小葵

 これは幼き時代から社会人になる主人公の成長過程と心情が痛いほど共感できる小説である。中国出身の母が折り紙に命を吹き込む魔法を使う、という描写で物語は幕を開ける。アメリカ人とのハーフである主人公は、そんな母への反抗心が成長すると共に強くなってしまった。アメリカという見知らぬ土地で日に日に孤独になってゆく母。外への関心を強め、家庭内への興味を失ってゆく息子。物語が進む中で母は癌で衰弱し帰らぬ人へとなってしまった。そして、愛する妻を失い急に老けてしまった父の、一人で住むには大きすぎる家を売却する準備をしている場面に移る。掃除をしていると、中国に嫌気がさし始めたずっと昔に屋根裏へとしまい込んだ、かつて生きていた紙の動物たちを見つけた。それから暫く経った、死者を慰める祭りである清明節(せいめいせつ)の日。一番初めに母が作ってくれた老虎(ラオフー)が主人公の元へと現れ、裏面にある手紙を読ませる。そこは愛と、息子が自分を拒絶してきた事への寂しさや苦しみが綴られていた。それを目にした主人公はただ「愛」の字を手紙の下に何度も書き、老虎に戻した手紙と共に家へと帰っていく。小説の粗筋はこのような調子だ。
 私は、全体的に、息子と母という異性間での歯がゆさを感じた。アメリカに住むなかで感じる「生きづらさ」の責任を母の出身に押しつける主人公は、なんとも自らの出生と私生活の軋轢に苦しんでいるように見える。しかし、ではなぜ、父にその矛先は向かないのだろう。
 P13「買われていくために自分をカタログに載せるような女性は、どんな人間なのか?」「軽蔑がワインのようにするすると喉を滑り落ちていった」。これは両親の結婚生活が、カタログにある母を買ったことで始まった事実への主人公の心情だ。母への軽蔑、これはきっと後の反抗心の種であろう。しかし、では、わざわざ金を払ってアジア人の女性を娶った父への負の感情はどうして存在しないのだろうか。身を売る理由はいくらでも思いつく。しかし、それを買う側の理由はどうだろう。私はここに筆者の女性蔑視を感じてしまった。わざとでは無い、長い時代のなかで形成されてきた男尊女卑が垣間見えている証拠では無いだろうか。
 P18,19の親子喧嘩のシーンで父は息子である主人公の味方ばかりしている。P19「わたしはきみを甘やかしすぎた。ジャックは周りに合わせていかないとだめなんだ」から、自分と同じ言葉を使って欲しいという母の願いを甘えだと考えていることが読み取れる。ここにもジェンダー間での「教育」の認識の違いを感じる。
 この小説のテーマとして、自由というものがあるように思う。動物園という檻に囲まれた見せかけの自由は、主人公の状況とよく似ている。主人公が自由と感じる「アメリカ的な周りへの調和」は、確かにいじめなどの存在しない生きやすい世界をつくるのに役立っただろう。しかし、それは感情や温かさを徐々に失っていったということを確かに感じる。それはP21「病室にいてもぼくの心は、どこか上の空だった」「ぼくは手を伸ばし、母さんの手に触れた。そうするのがこの場合にふさわしいだろうと思ったからだ。」からも分かるだろう。
 そして、母の死という出来事により、忌まわしき非アメリカ的な柵から解放され、晴れて自由の身となったと主人公は考えているのではないだろうか。それはP23「ぼくの乗った飛行機がネヴァダ上空のどこかを飛んでいるときに母さんは亡くなった」から読み取れる。自由の象徴であるような空を、鉄の鳥に乗り込み飛行している。そしてそれは主人公が心躍らす「輝かしいカリフォルニアの日差し」へと向かう便である。また、優しさと脆さを感じる紙とは対照的な、冷徹で堅く頑丈な鉄でできた飛行機で母の死を迎えていることから、母との乖離を感じた。
 この母への冷めた気持ちは、P23の本棚の隣の床のうえにある球状のものが老虎であると理解した時から徐々に溶け始めたのではないだろうか。それまでシーンの説明と主人公の体温を感じない心情ばかりであった地の文に、ぬくもりが現れ始める。見つけた老虎がじゃれついてきた場面のP24「どうしてた、相棒」は、P20で「あんな女性」と言わしめた母が作った動物にかけられた言葉だ。P24の冒頭で主人公は老虎を介して母を思い出していた。そこから、母への気持ちが当時ほど冷たくないということが読み取れるように思う。
 確信的なのはP25「皮膚を通り、骨を通って、心臓をぎゅっとつかんできた。」という文だ。これはP19『「もし“愛”と言うと、ここに感じます」自分の心臓の上に手を置いた』という母の言動とリンクしている。あれだけ母と自分はどこも似ているところがない、と言っていたが、根本の心では母と繋がっているという描写ではないだろうか。
 そしてP29「中国人がこの世でいちばん悲しいと思うことがなんだか知ってるかしら?孝行したいときに親は無しと分かることなの。」は今の主人公と重なる。このことから、最後の四段落分の行動は、後悔と悲しさ。そして亡き母への愛情表現なのではないだろうか。
 また、テーマとして自由が掲げられているのでは、と先に書いた。実は、紙で作られていた動物も、主人公も、母の手紙を手に入れて初めて外にいる描写が描かれているのだ。ここから私は、母の愛を感じることで幼少期以来の、本当の自由を取り戻したのではないかと考えた。
 各所で、例えば男尊女卑のようなシーンや主人公の冷たさなどにモヤモヤとする部分がありつつも、どこか、「心臓をぎゅっとつかまれる」小説であった。

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