he/himの自分がフェミニズムを学び出すときにあったら嬉しかった歴史まとめ。
この記事は、Vox「The waves of feminism, and why people keep fighting over them, explained(by Constance Grady)」と、GWAnet「History and theory of feminism」を日本語訳しながら、なるべくシンプルにフェミニズムの歴史に触れられるようにまとめたものです。
私自身、フェミニズムの思想に強く共感しているものの、男性としてどのように行動し、声をあげ、また考えていけばいいのか。どうすれば逆効果ではないかたちで貢献ができるのか。
そんなことを考えはじめました。
男性の立場だからこそ、男性に対してのコミュニケーションはできないだろうかと。
そこで、まずは僕自身がフェミニズムを知ろうとした際に、歴史と思想の変遷を理解したいと感じ、記事を探し回ったことを思い出し、このまとめを書いています。
誰かの学びの一助となれれば光栄です。
目次
・はじめに
・第一波:1848年から1920年まで
・アメリカ合衆国憲法修正第19条 / The Second Sex
・第二の波:1963年から1980年代
・「個人的なものは政治的なものである」
・またしても白人中心であること / ブラジャーを燃やすイメージ
・フランスフェミニズム
・第三の波:1991年?から
・第三波の変遷 / 第二波との違い
・多人種フェミニズム / 異性関係についての調査
・現代あるいは第四の波
・さいごに(はじめに読むおすすめ本を紹介)
はじめに
フェミニズムという用語は、女性のための平等な権利と法的保護を確立することを目的とした政治的、文化的、経済的な運動のために使われます。
また、性差の問題に関わる政治的・社会学的な理論や哲学、男女平等を提唱し、女性の権利や利益のためのキャンペーンを行う運動まで多岐にわたる分野や立場が含まれます。
フェミニズムはこれまで、文化から法律に至るまで、西欧社会の広い範囲の分野で、優勢な視点を変えてきました。
フェミニズムが活動してきた事柄の一部
- 女性の法的権利(契約権、財産権、投票権)
- 女性の身体的完全性と自律性の権利
- 中絶の権利
- リプロダクティブの権利
(避妊と質の高い出生前ケアへのアクセスを含む)
- 家庭内暴力、セクハラ、レイプからの女性と女児の保護
- 産休や同一賃金を含む職場の権利
- 女性差別への反対運動
- その他のジェンダー特有の女性差別に反対するための運動 など
マギー・ハムとレベッカ・ウォーカーによると、フェミニズムの歴史は3つの波に分けることができ、
第一のフェミニズムの波は19世紀から20世紀初頭
第二の波は1960年代から1970年代
そして第三の波は1990年代から現在まで続いているとされます。
これから、その流れの概要を追ってみたいと思います。
もちろんここでは語れない背景や文脈、重要な事柄は数え切れないほどあるでしょう。しかし、初学者のために、あくまで非常に粗く流れを追うというコンセプトを許していただければと思います。その上で、誤認や注釈などがありましたらご教示くださいませ。
第一波:1848年から1920年まで
第一波は、女性の政治的平等を達成することを目的とした西洋初の持続的な政治運動であり、19世紀後半から20世紀初頭の参政権運動を指します。
70年ほどの間、行進や講演、抗議を繰り返し、逮捕され、嘲笑され、暴力を受けながら、選挙権を求めて戦った運動です。
この運動は、1848年のセネカフォールズでの会合から始まります。約200人の女性がニューヨーク州北部の教会に集まり、"女性の社会的、市民的、宗教的条件と権利 "について議論しました。
そして、平等な権利を求める12の決議のリストを作りました。
1854年には、フローレンス・ナイチンゲールが女性看護師を軍の補助要員として設立しました。
また当時、新興の女性運動は奴隷廃絶運動と密接な関係があり、指導者たちは皆、奴隷廃絶論者でした。
ソジャーナー・トゥルース、マリア・スチュワート、フランシス・E・W・ハーパーのような有色人種の女性たちは、女性の参政権のためだけでなく、普遍的な参政権のために活動し、この運動で主要な力となりました。
しかし、有色人種の女性が女性運動に多大な貢献をしたにもかかわらず、エリザベス・キャディ・スタントンとスーザン・B・アンソニーの運動は、人種的反感を利用して、最終的には白人女性のための運動としての地位を確立するに留まりました。
また、その後、1870年に黒人に選挙権を与える修正15条が可決されたことは、白人女性を参政権運動に駆り立てました。(まさか元奴隷が先に選挙権を与えられるなんて、と言わんばかりに。)
黒人女性はいくつかのデモに参加することを禁じられたり、他のデモでは白人女性の後ろを歩くことを余儀なくされたりしました。
しかし、こうした人種差別がある状況にもかかわらず、非白人フェミニストたちは、白人女性の参政権だけでなく、教育や雇用の機会均等、財産を所有する権利を求めて戦いました。
運動が発展するにつれて、リプロダクティブ・ライツの問題にも目が向けられるようになりました。
1916年には、マーガレット・サンガーは、避妊の配布を禁じたニューヨーク州法に反抗して、米国で最初の避妊クリニックを開設しました。
イギリスでは、サフラジェット派が女性の投票権を求めて活動し、1918年には住宅を所有する30歳以上の女性に投票権を与える人民代表法が可決されました。1928年には、21歳以上のすべての女性に選挙権が与えられました。
アメリカ合衆国憲法修正第19条
1920年、議会は女性に投票権を与える修正第19条を可決しました。
理論的にはすべての人種の女性に権利が与えられましたが、実際には、特に南部では黒人女性が投票することは困難なままでした。
とはいえ、修正第19条は第一波の偉大な立法的成果でした。
それからも個々のグループは、生殖の自由、教育と雇用の平等、黒人女性の選挙権を求めて活動を続けましたが、運動全体は分裂し始めました。
もはや文化的な勢いに支えられた統一的な目標はなく、1960年代に第二の波が始まるまで、別の共通目標を見つけることはできませんでした。
第一波という用語は、第二波フェミニズムという用語が、政治的不平等と同様に社会的・文化的不平等との戦いに重点を置いた新しいフェミニズム運動を説明するために使用され始めた後に、遡及的に造語されました。
The Second Sex
フランスの作家・哲学者であるシモーヌ・ド・ボーヴォワールが1949年に書いた、女性の抑圧を詳細に分析した論文『The Second Sex』は、現代フェミニズムの基礎となっています。(英訳は1953年に出版された。)
ここでの彼女の分析は、「他者としての女性」の社会的構築に焦点を当てており、女性の抑圧の根底にあるものと見なしています。
彼女は、女性は歴史的に逸脱した異常者とみなされてきたと主張し、メアリー・オルストンクラフトでさえ、女性が憧れるべき理想は男性であると考えていたとし、フェミニズムが前進するためには、このような態度を脇に置かなければならないと述べています。
第二の波:1963年から1980年代
フェミニズムの第二の波は、1963年に出版されたベティ・フリーダンの『The Feminine Mystique』から始まります。
この作品は3年間で300万部売れました。
『The Feminine Mystique』は、「名前のない問題」に憤慨しています。
それは、女性の居場所は家庭の中にあり、主婦であることによって不幸になるのは、壊れていて変態的だからだと教え込む、制度的な性差別の事です。
「キッチンの床にワックスをかけてもオーガズムが出ないので、私は私に何か問題があると思っていた」とフリーダンは後に口にしています。
フリーダンの考えの多くは、すでに学者やフェミニストの知識人によって議論されていたため、その考え方自体は革命的なものではありませんでした。
むしろ、その考え方が主婦の手の届くところに置かれ、友人同士でシェアされるという情報流通の点で革命的でした。
この本は、美しい家と家族を持つ高学歴の中産階級の白人女性の全体に怒る許可を与えたと言えます。
そして、その300万人の読者が自分たちの怒りに気付き、フェミニズムは再び文化的な勢いを取り戻したのです。
この第二の波には統一された目標もありました。それは、第一波のような政治的な平等ではなく、社会的な平等でした。
「個人的なものは政治的なものである」
第二波のフェミニストは、セックスや人間関係、中絶や家庭内労働など、個人的で些細に見える問題は、実際には体系的で政治的なものであり、女性の平等のための戦いの基本であると主張していました。
このようにして、第二波の運動は、以下のようないくつかの主要な立法的・法的勝利を勝ち取りました。
1963年の男女平等賃金法は理論的に男女間の賃金格差を無法化
既婚女性と未婚女性が避妊手術を受ける権利
女性が自分の名前でクレジットカードを持ち、住宅ローンを申請する権利
夫婦間のレイプを違法化
家庭内暴力についての意識向上
レイプや家庭内暴力から逃れてきた女性のためのシェルターを建設
職場でのセクシュアル・ハラスメントに対して名前を挙げて法制化
しかし、これらの成果と同じくらい重要なことは、社会の女性に対する考え方を変えることに焦点を当てたことだったのかもしれません。
第二波は、女性の最高の目的は家庭的で装飾的なものであるという信念と、それを補強する社会的基準という、社会に染み付いた体系的な性差別に深く関心を寄せ、その性差別に名前をつけ、それを解体したのです。
またしても白人中心であること
第二の波は人種差別も気にしていましたが、有色人種の人たちと一緒に仕事をする上では不器用だったかもしれません。
女性運動が発展するにつれ、それは反資本主義と反人種主義の公民権運動に根ざしていましたが、黒人女性は主流の女性運動の中心的なプラットフォームからますます疎外されていることに気づきました。
フェミニン・ミスティークとその「名前のない問題」は、特に白人中産階級の女性のためのものでした。
自分たちを支えるために働かなければならない女性(非白人・非中流階級)は、社会的に働くことを嫌がっていた女性とは全く異なる抑圧を経験していました。
家庭の外で働く権利を得ることは、黒人女性にとって大きな関心事ではなく、多くの女性はいずれにせよ家庭の外で働かなければならなかった。
そして、黒人女性と白人女性はともに生殖の自由を擁護していたが、黒人女性は避妊や中絶の権利だけでなく、有色人種や障害者の強制的な不妊手術を止めるために戦いたいと考えていた。
これを受けて、一部の黒人フェミニストはフェミニズムから脱却し、「ウーマニズム」を生み出しました。
アフリカ系アメリカ人のフェミニストで知識人でもあるグロリア・ジーン・ワトキンス(偽名「ベル・フック」を使用)も、著書『Feminist theory from margin to center』(1984年)の中で、女性運動におけるマイノリティの声の欠如を強調しています。
アンジェラ・デイヴィスは、著書『女性、人種、階級』の中で、人種、ジェンダー、階級の交錯を中心とした議論を最初に打ち出した人物の一人です。
フェミニストの法理論家であるキンバリー・クレンショーは、そのエッセイ「余白をマッピングする」の中でアイデンティティ・ポリティクスを論じながら、インターセクショナリティという概念を作りました。
ブラジャーを燃やすイメージ
第二波フェミニズムは人々を怖がらせるのに十分な急進的だった。女性たちは1968年にミス・アメリカのショーに抗議するために集まり、抗議の一環として、ブラジャーやプレイボーイのコピーなど、女性の客観化の象徴とみなされるものを燃やし、捨てました。
その結果、ミス・アメリカの抗議がブラジャーを燃やすものとして大衆の想像力の中に長く残り、ブラジャーを燃やすことが戦後のアメリカのフェミニズムの象徴になってしまいました。
1980年代、レーガン時代の快適な保守主義は、第二波フェミニストを、現実の問題ではなく、「ブラジャーのような些細なたわごとにしか関心のない、ユーモアのない、毛むくじゃらの足の女性たち」としてネガティヴに印象づけることに成功してしまいました。
「私は自分をフェミニストだとは思っていません」
1982年にある若い女性がスーザン・ボロティンに、ニューヨーク・タイムズ誌で語った。
「私にとっては違うけど、隣の男にとっては、私(フェミニスト)はレズビアンの男嫌いなのよ。」
もう一人の若い女性も同意した。
「周りを見渡してみると、幸せな女性がいて、それが苦い、苦い女性ばかりに見えてくる。不幸な女性はみんなフェミニストです。フェミニズムの熱烈な支持者である、幸せで、熱狂的で、リラックスしている人はほとんどいないでしょう。」
フェミニストは怒っていて男嫌いで孤独だというイメージは、第二の波がその勢いを失い始めたときに定型的なものとなり、今日のフェミニズムについて語る方法に悩まされ続けています。
第三の波:1991年?から
第三の波とは何か、いつ始まったのか、今も続いているのか、ということについて、未だ大多数の合意はありません。
ですが、フェミニスト学者のエリザベス・エバンスは、「何が第三の波フェミニズムを構成するのかをめぐる混乱は、いくつかの点でその決定的な特徴である」と書いています。
それは1991年のアニタ・ヒル事件と、1990年代初頭の音楽シーンにおけるライオット・グリル・グループの出現です。
1991年、アニタ・ヒルは上院司法委員会の前で、最高裁判事候補のクラレンス・トーマスが職場で彼女にセクハラをしたと証言しました。
結果的に、トーマスは最高裁判事に就任しましたが、国家の指導的役割に男性が過剰に存在していることについての国民的な話題を引き起こしました。
翌年の1992年は、24人の女性が下院で議席を獲得し、さらに3人の女性が上院で議席を獲得したため、「女性の年」と呼ばれることになります。
このアニタ・ヒル事件をリアルタイムで見ていた若い女性たちにとって、この事件は目覚めの年となりました。
トーマスが最高裁に宣誓するのを見た後、レベッカ・ウォーカーはMs.マガジンを通して「私はポストフェミニズムのフェミニストではありません」「私は第三の波です」という宣言をしました。
第三波の変遷
初期の第三波の活動家は、職場でのセクハラに反対し、権力者の地位にある女性の数を増やすために活動する傾向がありました。
その論理は、80年代の理論家の仕事に根ざしています。
ジェンダーと批判的人種理論の研究者であるキンバリー・クレンショーは、異なる形態の抑圧が交差する方法を説明するために「インターセクショナリティ」という言葉を造語しました。
クレンショーとバトラーの複合的な影響力は、インターセクショナル・フェミニズムの基本的な部分としてトランスの権利のための闘いを第三の波が受け入れるための基礎となりました。
スタイルとしては、1990年代のアンダーグラウンド・フェミニストのパンク・ムーブメントに深く影響を受けていると言えます。
Riot Grrrl Manifesto (1991年) より
「なぜなら、私たちを正当化し、挑戦するようなクールなことをしたり、読んだり、見たり、聞いたりすることは、人種差別、健常者差別、年齢差別、種族差別、階級差別、薄っぺらい差別、性差別、反ユダヤ主義、異性差別などのデタラメが私たちの生活の中でどのように現れているのかを理解するために必要な強さとコミュニティの感覚を得るのに役立つから。」
「私たちが怒っているのは、女の子=間抜け、女の子=悪い、女の子=弱いと言う社会に対して。」
キャスリーン・ハンナ (ビキニ・ヒル)
ここでの「女の子」という言葉は、第二世代と第三世代のフェミニズムの大きな違いの一つを表しています。
第二波のフェミニズムは、女の子ではなく女性と呼ばれるために戦いました。彼女たちは子供ではなく、完全に成長した大人であり、尊厳を持って扱われることを要求したのです。
しかし、第三波の人々は女の子であることに肯定的です。
彼らはこの言葉=「女の子」に力を与え、脅迫的でさえあるものにしたいと考えました。
第二波との違い
第三の波は、第二の波が拒絶しようとしていたあらゆる種類のアイデアや言葉、美学、つまり化粧やハイヒール、ハイファム・ガールらしさを受け入れるようになっていきます。
第三の波が”女らしさ”を受け入れたのは、1980年代の反フェミニストの反発への反応でもありました。
第二の波は本質主義的に女性らしさの定義に挑戦したり、それを回避しようとしているが、それは(彼らによれば)中産階級の白人女性の経験を過度に強調するものであるとしています。
また一部では、女の子らしさを拒絶すること自体が女嫌いであるという信念から生まれたものであるというコンテキストも存在します。
効果的なフェミニズムは、美の基準を生み出す家父長的構造の危険性と快楽の両方を認識しなければならず、快楽をもたらすようなことをしている個々の女性を罰したり、非難したりすることは無意味であるという信念の高まりに根ざしています。
第三の波のフェミニズムは、第二の波とは全く異なる話し方や考え方をしていましたが、第二の波の壮大な成果の背後にあった強い文化的な勢いに欠けてもいました。
第三の波は、中心的な目標を持たない拡散的な運動であり、第一波、第二波のような大きさの法律や社会変化はないように見えます。
しかし、あなたがどのように波を数えるかにもよりますが、#MeTooのムーヴメントが止まる気配のないまま発展している今、それは変わりつつあるのかもしれません。
ジェンダーとセクシュアリティに関するポスト構造主義的な解釈は、第三の波のイデオロギーの多くの中心となっています。
また、心理学者キャロル・ギリガンのように男女間には重要な違いがあると信じているフェミニストと、男女間には本質的な違いはなく、性別の役割は社会的条件付けによるものだと主張するフェミニストの間の内部的な議論も含まれている。
多人種フェミニズム
有色人種の女性の生活や経験についての立場からの理論と分析であるこの理論は1990年代に登場し、チカナ・フェミニストのマキシン・バカ・ジン博士と、アフリカ系アメリカ人女性と家族に関する社会学の専門家であるボニー・ソーントン・ディル博士によって開発されました。
異性関係についての調査
20世紀に入ってからの女性の職場への進出の増加は、ジェンダーの役割と家庭内の分業に影響を与えてきました。
社会学者のアーリー・ラッセル・ホーチルドは、『セカンド・シフト』と『タイム・バインド』の中で、共働きの夫婦では、男性と女性は平均してほぼ同量の時間を働いているが、女性は依然として家事に多くの時間を費やしているという証拠を提示しています。
また、フェミニストの作家であるキャシー・ヤングは、場合によっては女性が男性の家事や育児への平等な参加を妨げている可能性があると主張することで、ホーチチャイルドの主張に反論しています。
欧米の中流階級における男性の育児や家事労働への貢献に対するフェミニストの批判は、一般的に、夫婦の両方が家庭外で働いている場合に、女性が家事や育児の半分以上をこなすことを期待されるのは不公平であるという考えを中心にしています。
クリスティン・ルーカーの研究では、女性も男性もある程度フェミニズムを恋愛と相反するものと認識していることが示唆されているが、大学生や高齢者を対象とした研究では、フェミニズムが女性にとっては人間関係の健全性に、男性にとっては性的満足度にプラスの影響を与えることが示されており、フェミニストに対する否定的なステレオタイプの支持は得られていないことがわかった。
現代あるいは第四の波
多くのフェミニストたちは、少なくとも1986年に『ウィルソン・クォータリー』誌へのレターライターが、第四の波がすでに構築されているとの見解を述べて以来、第四の波の到来を予想してきました。
ここ数年、#MeTooとTime's Upが勢いを増し、Women's Marchが毎年プッシーハットで溢れ、記録的な数の女性が立候補の準備をしているように、待望の第四の波が実際に来ているようにも見え始めています。
「第四の波はオンラインなのかもしれない」と2009年にフェミニストのジェシカ・ヴァレンティは言っていますが、それが第四の波フェミニズムの主要な考え方の一つになってきています。
オンラインは活動家が集まり、活動を計画する場所であり、フェミニストの言説や議論が行われる場所でもあります。それはオンラインで考えられ、オンラインとオフラインが相互作用し、伝播していきます。
第四の波の始まりは2008年頃とされていますが、これはFacebook、Twitter、YouTubeが文化的に定着し、JezebelやFeministingのようなフェミニストブログがウェブ上に広がっていた頃と重なります。
Emma Sulkowicz - Mattress Performance (Carry That Weight)
コロンビア大学のレイプ被害者が大学がレイプ犯を追放するまでキャンパス内でマットレスを運ぶことを約束したプロジェクト
#YesAllWomen
UCサンタバーバラ銃乱射事件の後に流行したハッシュタグ
#StandWithWendy
ウェンディ・デイビスがテキサス州の中絶法をフィリバスティングした時に流行したハッシュタグ
SlutWalks
2011年に始まったレイプを防ぐ方法は女性が「尻軽女のような服を着るのをやめること」だという考えに抗議したキャンペーン。
フェミニズムのすべてがそうであるように、第四の波は一枚岩ではありません。人によって意味するものは違うでしょう。
しかし、第四の波は、私たちの文化の中で最もパワフルな男性たちの行動に責任を持たせるようにまでなりました。
つまり、捕食者が容赦なく女性をターゲットにすることを可能にする権力のシステムの根本的な批判を始めています。
さいごに
この記事で取り上げたフェミニズムについての記載は、繰り返しますが、二つの英語記事の翻訳をベースとした、概略的なものに留まります。
この文章が、はじめてフェミニズムについて知ってみたいと考えた時に、触れられる取っ掛かりの一つとして、機能するものになれば嬉しく思います。
また、異性愛者の男性、しかも日本で暮らす日本人男性=マジョリティ・抑圧側の人間としての私が男性であるからこそ考えていけること、を今後もなるべく目を曇らせないように考えていきたいと思っています。
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