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大学受験で1.6点足りなくて落ちた私への手紙

第一志望の大学に落ちた高3の私へ。

まさか落ちるとは思っていなかったよね。

ずっとA判定だったし、まわりもみんな受かるって言ってくれてたし。

合格発表に自分の番号がなかったときの、心臓がヒュッとする感じ。あれは15年近くたったいまでも思い出したくない。

しかも、足りなかったのは1.6点。

あそこで計算ミスしてなかったら。勘で答えたあの問題で、違う選択肢にしていたら……。

もうどうにもならないのに、考えても仕方ないことをいろいろ考えてしまうよね。

まずはきちんと落ち込むこと

立ち直ろうとしていろんなことを考えると思うし、まわりの人もいろんなことを言うと思う。

長い人生でみれば、大学落ちたくらい大した話じゃない。そもそも受験ができて、受かったら通わせてもらえる環境をありがたいと思わないといけない。

そういうことは、たぶん頭ではわかっていると思う。

でも考えたからといって、気持ちがすぐに回復するわけじゃないよね。

いままでの人生の中で一番くらいがんばってきたことが報われなかった。そのショックな気持ちを、すぐに無理して押し込めなくていいと思う。

まずは、きちんと落ち込むこと。

大切なのは正しい選択肢を選ぶことじゃない

いろんな人が心配して、いろんな言葉をかけてくれると思う。

その言葉はもちろんありがたい。だけど、優しい言葉をかけてもらうほど「この気持ちは自分にしかわからない」と心を閉じてしまったりもすると思う。

いまは、ひとこと「ありがとう」と言って感謝の気持ちを伝えれば大丈夫。何ヶ月かたつと、周りの人の言葉が自分の中にゆっくり染み込んでくるものだから。

いまでもすごく覚えているのは、高校の英語の先生がかけてくれた言葉。

「大切なのは、正しい選択肢を選ぶことじゃない」

「ほんとうに大切なことは、選んだ選択肢、選ばざるを得なかった選択肢を、あとから正しくしていくことだよ」

そのときは正直「大人がなんか言ってんな」と思ってた。

でも心に残る言葉だった。少し時間がたって落ち着いたら、この言葉にすごく納得して、元気をもらえた。いまもこの言葉はほんとうにその通りだと思ってる。

ネタバレしちゃうと、私は浪人して1年後にちゃんと合格するし、予備校で一生の友だちもできる。大学でも素敵な出会いがたくさんあって「1年遅れてよかったな」くらいに思える日々がやってくる。

1浪して合格したことが、いまの私にとっては「正しい選択肢」になっているんだ。

「最終的に合格できたからそう言えるんでしょ」と思う人もいるかもしれない。もちろんそういう面はあると思う。

だけど、もし1浪して不合格だったとしても、それを「正しい選択肢」にすることはできるはずなんだ。

結果がどうあれ、がんばった経験に対して自分なりに意味づけをすることはできる。第一志望に行かなかったおかげで出会える人や、経験できることがある。もしどうしてもその大学で勉強したいなら、大人になってからまた受験したっていい。

どんな結果で、どんな選択肢を選ぶことになっても、それを正しくする作業はあとからいつでもできる。

むしろ、選ぶことそのものより「その選択肢を後から正しくすること」のほうが大事だったりする。

だから、どうなっても大丈夫だよ。

就職活動がつらかった

もうひとつ、伝えたいことがある。

浪人したのちに合格したことで「一生懸命努力すれば報われる」という成功体験ができたのは、すごくプラスになったと思ってる。

でも強い成功体験をしたからこそ、あとになって少し辛い思いをすることにもなるんだ。

それが、就職活動のとき。

いまの就職活動にはちょっと悪いところがあって、本当はそんなことないのに、少し受験勉強っぽくみえる部分があるんだ。

会社に偏差値をつけてる人たちがいて、その数字が高いところに入るのがいいような気がしてくる。選考に合格したメールがくると、テストでいい点取ったときみたいにアドレナリンが出たりする。

ほんとうは会社の選考基準なんて、一つのモノサシのようになっているわけじゃない。相性をみているだけなんだよね。

だけど、ほんと最低だと思うけど、私は就職活動を受験勉強みたいに考えてる部分があった。

うまくいってるときはよかった。でもあたりまえだけど、全部の会社に合うなんてありえない。

だから当然落ちる会社もあるわけだけど、そのときに「自分の努力が足りなかった」「努力すれば入れるはず」と思ってしまったんだよね。

そう考え始めると、自分にばっかり意識が向いてしまう。

ほんとうは何がしたいのかとか、どう社会に役に立ちたいかを考える時期なのに「どう努力したら認めてもらえるか」ばかり考えて、苦しくなってしまった。

最終的には合う会社がみつかったからよかった。けど、自分の中の「努力思考」みたいなものが消えたわけじゃなかった。

働き始めたら、なおさら受験勉強みたいにはいかない。

もちろん自分が努力することも大切だけど、周りの人の力を借りたり、ときには自分でやらないで人に任せることも必要。マジメにがんばるだけじゃなくて、遊びがあったほうがいいときもある。

働き始めてからの私は「なんでもかんでも受験勉強みたいに努力すればうまくいくってわけじゃない」って少しずつ学んできた。まわりの人に助けてもらって、いろんな経験をさせてもらいながら、自分の価値観を少しずつ変えていくことができたと思ってる。

成功体験は悪くも作用する

「一生懸命努力すれば報われる」経験ができたのは、その後の人生でプラスになったことのほうが圧倒的に多いと思う。(比較はできないけど……)

けど私があえて伝えたいのは「1.6点で落ちた悔しい思いを乗り越えて、合格した」という経験が、悪く作用する場面もあるという話なんだ。

これは受験にかぎった話じゃない。

何かに成功したり失敗したりすると、自分の中に強烈な価値観ができることがある。

その価値観が強く残ったままだと、よっぽどラッキーじゃないかぎり、どこかで苦しい思いをすることになる。

そうなったら、その価値観をわざと壊していかないといけないんだ。これをアンラーニング(unlearning)って言ったりする。

もし1年浪人して不合格だったとしても、私の中には何か強い価値観が生まれたと思う。「まじめに努力しても意味ない」みたいな。

その価値観がよく作用する場面もあるし、悪く作用する場面もきっとあったはず。

まあ、物事にはいい面と悪い面があるっていう、よくある話だよね。

どんな結果でも、何かエネルギーを使うチャレンジした後は、自分の中に何か強い価値観が生まれるもの。そしてその価値観は、どこかのタイミングでアンラーンしないといけない。

合格してもしなくても、そのことに変わりはないんだ。

いまの私は30年ちょっとしか生きてないけど、チャレンジしてはアンラーニングして、っていうのをみんな一生続けていくんだと思ってる。

なんか、けっきょく大人の説教みたいになっちゃった。

ただ、いろんな人に言われるであろう「合格してもしなくても関係ないよ」という言葉が、ちょっと違って聞こえたらいいなと思う。

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