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「ロジカルな人は冷たい」に異議を申し立ててみる。

ロジカルな人って、冷たい印象がありませんか?

特にコンサルタントをやっているとロジカルシンキングを叩きこまれることもあり、一般的には冷たい人というイメージを持たれているように思うことがあります。

それを払拭したい!というわけではないのですが(笑)、私自身はロジカルな人についてちょっと違う考えを持っているので、今日はそれについて書いてみます。

冷たいイメージはどこからくるのか?

そもそも「ロジカルな人は冷たい」というイメージはどこからくるのか。

あくまで私の印象ですが、日常生活の中で次のようなことをされると、冷たい・面倒くさいと思う人も多いのではないでしょうか。

・強い言葉と態度で「論破」してくる
・共感してほしいのに、論理的に問題解決しようとしてくる。さらにこちらの非を「指摘」してくる
・論理で理解する必要のないことを、いちいち「なぜ?」と深掘ってくる

共通するのは「ロジックを持ち出す場面について空気が読めていない」ということかと思います。

ロジック(論理)は強力な武器ではあるので、一度身につけるとどこでも使えるかのような、「ロジカル万能説」に立ってしまいやすいものかもしれません。(私もどちらかと言えばロジカル側の人間なので人のことは言えないかもしれませんが・・・)

日常生活と照らして考えれば当たり前ですが、ロジックが有効な場面は世の中のごく一部です。深く共感している仲間内ではいちいちロジックは必要ありません。芸術などの世界もロジックで語り切れない場面は多いでしょう。

ビジネスの世界では相対的に求められる場面は多いとはいえ、もちろん万能ではありません。言葉で説明できないような新しいひらめきは、ロジックからは生み出せません。人を動かすときにもロジックだけでは無理です。

以下ではロジックの話をしていきますが、使える場面は世の中のごく一部だよ、という前提で話を進めていきます。


ロジックは「思いやり」と考えてみる

それでは、ロジックが有効なのはどのような場面でしょうか?

ロジカルシンキングについて考えるために、まず、ロジカルでないシンキングを考えてみます。

<飛躍・見落し>「あの人が社交的なのは帰国子女だからに違いない」
<事実誤認>「僕はイケメンだから大学ではモテまくるはず」
<条件・因果関係の誤認>「コンサルはみんなこの本を読んでいるから、この本を読めばコンサルになれるはず」
<過度な単純化>「ロジカルな人はみんな冷徹だ」

色々な突っ込みどころがあると思いますが、いずれも「それ、本当?」という疑問に集約されると思います。

このような「それ、本当?」を突っ込まなければいけないときが、ロジックの出番です。それをやるべきかどうかは、判断が必要です。投資を伴う経営判断では必要かもしれませんし、友達同士のおしゃべりでは必要ないかもしれません。そこは、先ほど述べたように「空気を読む」ことが必要になります。

「それ、本当?」を問うべき場合のチェックポイントとしては、

・全体をモレなくダブりなく認識・整理する
・整理した中のどこの話をしているのか明確にする
・事実を正しく認識する
・誤解が生じないように言葉で伝える

といったことが挙げられます。

ロジカルシンキングは様々な定義が可能ですが、要するに「考える上で、なるべく見落とし・思い込み・誤解を減らそう」というのが個人的な解釈です。

これって、思考方法というよりは、思考の前提としての「思いやり」みたいなものだと思うのです。

物事を整理せず、誤認だらけの主張をしたら、相手は混乱してしまいます。ひどい場合は、ロジックの穴を巧みに隠しながら勢いで押し切って、相手が疑念を挟む間もなく説得してしまう人もいます。

そうではなくて、思考の前提となる状況や事実について、まず見落とし・思い込み・誤解を減らしてから考え始める。その「土台づくり」の際に、ロジカルシンキングは力を発揮します。裏を返せば、「土台づくり」が必要なく認識を共有できている相手に対しては、ロジックによる確認をいちいち持ち出す必要がない場合もあります。

要するに、ロジカルシンキングは、必要なときに必要な思いやりを持ちましょう、というだけの話だと思います。新しいものを生み出すのはその先の話であり、ロジカルシンキング自体から何か新しいものが生まれるわけではありません。

(さらに言うと、ロジカルに ”考える” という行為はそもそも成り立たないので、ロジカルシンキングという言葉自体ちょっと変だと私は考えているのですが、その話はまた別の機会に・・・)


相手の主張に耳を澄ませ、自分の主張を研ぎ澄ませる

ロジカルシンキングが「思いやり」だとすると、相手をやっつけるための道具としてロジックを振りかざすなんて、全然本来の目的と違うわけです。わかり切ったこと、整理する必要のないことをわざわざ持ち出して、議論の生産性を下げるのも、「思いやり」に欠けた行為だと思います。

つまり、ロジカルな人が冷たいんじゃなくて、「ロジックを冷たく使う人がいる」ってことなのです。

もし相手の話にロジックが通っていなかったら、ロジックでやっつけるのではなくて、あなたがロジックで整理して、そこから一緒に考え始めればいいんです。また、ロジカルシンキングが苦手な人は、整理してくれる人の思いやりを待つのではなく、あなたも思いやりを身に付けようとした方がハッピーになれるかもよ、と私は思います。

もちろんそれですべて解決するわけではないですが、そういったスタンスを持つこと自体が、コミュニケーションを豊かにしてくれる可能性があると思います。

東京大学 野矢茂樹教授の著書「論理トレーニング」には、次の記述があります。

世の中にはいろいろな人がいる。そして自分自身もまた一枚岩ではない。それを自覚し、問題への感受性を養うこと。なによりもそれが基本となる。同じことは討論の場においても言える。勝ち負けを決めねばならない闘いの場としての討論も確かにある。だが、屈服させるためではなく、お互いの想像力や感受性を賦活させるために行なう討論もあるのである。

私はこの文章を、「それ、本当?」を論理でつぶしていくことを通じて、異なる主張に対する理解を深めると共に、自分の考えに磨きをかけることができる、と解釈しています。

論理的に伝えようとすることを通して、自分の考えが至っていなかった点が見えてきます。直感的に素晴らしいと思ったアイデアでも、論理的に考えていくことで、弱点が見つかるかもしれません。

これと対局にある態度は、自分とは異なる主張を「決めつけ」で排除することです。相手を理解しようとすることを通して自分の考えが磨かれる機会を放棄してしまうのも、自分の幅を狭めてしまいます。

もちろん、論理を通して理解し合おうとしても、結果的にわかり合えないこともたくさんあります。それでも、その過程を通して、自分の主張・考えの深みや幅はより広がっているはずです。

このように、ロジカルシンキングの本質は「相手とわかり合うための道具」と言い換えることもできると思います。


相手の論理に寄り添うという思いやり

ところで、本来の意味の論理とは何でしょうか。これは私の解釈ですが、論理とは、ある前提や事象があったときに、そこから結論を導くための道筋のことだと考えています。

演繹法の有名な例で、

「人間はいつか死ぬ」
「ソクラテスは人間である」
「ゆえにソクラテスはいつか死ぬ」

というものがあります。

「人間はいつか死ぬ」というルールと、「ソクラテスは人間である」という観察事項を認めたならば、自動的に「ソクラテスはいつか死ぬ」という結論が導かれます。つまり、論理のプロセスそのものは自動であり、解釈の余地はありません。

しかしながら、前提または観察事項が違った場合はどうでしょうか。この場合、結論は論理的に導かれたとしても、異なる結論が導かれることがあります。

お互い論理的に話しているのに、結論が異なってかみ合わない場合があります。これは、前提または観察事項がズレているからです。

つまり、自分が論理に従って考える・伝えるだけでは不十分で、相手の前提と観察事項に想いを馳せなければ、本当の意味でコミュニケーションを取ることはできません。この意味でも、論理には思いやりが必要だと私は思います。

この部分が本当に難しい。「大企業の論理」といった言い回しもあるように、人・組織それぞれの前提と観察事項、そして論理があります。ここに想いを馳せた上で、どう認識を合わせていくか。論理が使えるなんて全然初歩の初歩で、そこへの思いやりがあって初めて、論理は本領を発揮できると私は思います。

そこまで見据えている「ロジカルな人」は、冷たい印象からはかけ離れていると私は思うのです。



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